<解説>
1841(天保12)年、水戸藩9代藩主・徳川斉昭によって造園が開始された偕楽園。偕楽園の創設に先駆け、斉昭はその母体となる梅林計画を立て、飢饉と軍用の非常食とするために梅の木を植えさせたと言われています。
「偕楽園」の名は、偕楽園は藩士の休養の場として、「領民と偕(とも)に楽しむ場に」と考えて開園されたことに由来しています。毎月「3」と「8」の付く日には領民にも開放されており、現在でも入園無料というかたちで、その精神は受け継がれているようです。梅が有名ですが、桜やつつじ、萩、二季桜と、年中きれいな花を楽しめるため、多くの観光客で賑わっています。
これらのような各藩の大名がつくった庭園は、大名庭園と呼ばれています。各地に美しい庭園が今でも残っています。城を巡りながら大名庭園を訪ねてみると、また違った城や武将の一面が見えてくるかもしれません。

徳川斉昭の業績として名高いのが、水戸藩の藩校「弘道館」の創設です。水戸城内に、178,431平方メートル(東京ドーム約4個分)もの規模でつくられ、当時の藩校としては国内最大規模でした。徳川最後の将軍、徳川慶喜もここで幼少時に教育を受けています。
弘道館は、剣術道場や砲術を学ぶ武門の部だけでなく、天文方、医学館、治療所、など学問の部も充実していました。文武両道の人材育成と砲術などの先端知識が、今後、海外の国々と対峙するために重要だという意識が強かったのでしょう。偕楽園は、弘道館で修学する藩士の休養の場として千波湖岸の景勝地につくられました。藩主自ら設計・監督を指図したとも伝えられ、この施設がいかに大切であったかを物語っています。