<解説>
米沢城は、出羽国置賜(おきたま)郡の地頭・長井氏が1238(暦仁元)年に築いたのが始まりとされています。その後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏と、支配者が変遷。伊達氏の領地だったときに、伊達政宗は米沢城で誕生し、24歳までを米沢の地で過ごしました。
その後、上杉氏が出羽国(現在の山形県、秋田県の一部)を支配することになったころ、直江兼続が城主となったことでも知られています。関ヶ原の合戦で西軍(石田三成)陣営となった上杉景勝は、会津の鶴ヶ城から、この米沢城に本拠を移しました。
当時の米沢城には天守閣はなく、主だったところ以外には石垣をつくらないなど、徳川幕府に対して権力を誇示して謀反の疑いをかけられぬよう、配慮したものだったようです。
米沢城は明治維新後に廃城となり、現在は内堀や土塁の一部が、当時の面影を残すのみとなっています。
一時は会津に本拠を構え、120万石もあった上杉氏ですが、本拠が米沢に移ったときには、わずか30万石までになってしまいました。さらに、関ヶ原の合戦で西軍についた上杉氏は、天下を取った徳川方に隙を見せてはいけないと、米沢城に天守閣をつくらず、主要部以外は石垣を使用せず、土塁中心にするという気の遣いようだったようです。
先の合戦では西軍で徳川に敵対、さらに大規模な城をつくったと知られれば、謀反を疑われ、家が途絶えてしまう可能性も高くなるでしょう。上杉氏は、力の象徴を誇示するよりも、家の存続や財政面を優先させたと言えます。
米沢城の本丸には、上杉謙信を祀った堂が建立されました。そのあとに上杉家で起こった3代藩主・綱勝の急死による後継者問題や、上杉鷹山が立ち向かった財政難などを乗り越えることができたのは、この堂が精神的な支えになっていたからかもしれません。
堂は、1876(明治9)年に長命寺へ移され、代わりに米沢城本丸跡地には上杉神社が建てられました。
今でも上杉謙信ゆかりの名所として知られています。