ご希望の日本の城情報を無料で検索できます。

施設検索/ホームメイト・リサーチTOP

城ワールド
日本の城
トップページへ戻る
トップページへ戻る

日本の城用語集(さ行)



日本の城に関する情報を検索できる「城ワールド」が、日本の城に関する用語(さ行)をご紹介します。お城用語などの予備知識があれば観光の面白さも数倍に!日本の城のことがよくわかる日本の城用語集をご活用下さい!

坂虎口

坂虎口とは、日本の城の出入り口である虎口について、形状で分類したときの一種。虎口は戦のときの主要な出入り口となるので、防御力を高めるために様々な工夫がなされたが、その結果生まれた形式のひとつ。坂虎口は中世には存在したとされ、虎口の歴史のなかでは比較的初期の物である。初期の虎口は障害を特に設置しない「平入(ひらい)り」と言う形式だったが、一気に押し寄せる敵の勢いを少しでも弱める目的で虎口の前方を急な斜面にする坂虎口が考案された。この坂虎口から発展して、虎口の前後に一文字型の土塁を置く「一文字虎口」、巴の字の形のように屈折した「巴虎口」、左右か一方の虎口の方向を重ねてS字状の通路を造った「喰違虎口」、さらに方形の「枡形門」へと進化していく。

逆茂木

逆茂木とは、木を切り倒して、葉や枝の付いたままで並べて造るバリケードのこと。戦のときに用いられることがあった。葉が茂っているほうを敵に向けることで、小枝のとがった部分が敵に刺さる針の役割を果たすうえ、茂った葉が目隠しとなって敵の視界を遮ることができる。枝同士を結び合わせ、垣根として配置することが多い。戦国時代末の書物である「築城記」に記載がある他、それより昔の「平治物語」や「平家物語」などにも登場することから、古代や中世から防御設備として存在していたとされる。戦国時代には土塁など城のあちこちに設けられた。

狭間

狭間とは、日本の城を構成する要素のひとつである。石垣や堀、建物の壁などに設けられる小さな窓のような穴のことで、ここから矢や鉄砲を放つ目的がある。一間にひとつ程度造られるのが一般的。狭間はどのような武器を使うための物であるかによって種類が分かれており、矢を発射するための矢狭間は縦長の長方形、鉄砲を撃つための鉄砲狭間は三角形や円、正方形であった。形状は他に、五角形や六角形なども存在する。また、設けられている場所によっても分類でき、土の塀や壁にあるのが土狭間、石垣の石に穴を掘って造った石狭間、虎口の脇にあって敵を横から攻撃するのに役立つ横狭間がある。なかには、外からは狭間と分からないように表面を塗り込めたり、瓦などで開口部を閉じたりしておき、戦で使うときにだけ開けて使用する隠狭間も多く造られた。

算木積

算木積とは、日本の城の防衛設備である石垣の、積み方の種類のひとつである。石を切り揃えるなどして直方体の石材をたくさん用意し、下に置く直方体の長い面に対し、すぐ上に置く直方体の長い面が垂直になるように規則正しく組ませて積む方法である。石垣の強度が高くなるとともに、角がきれいに揃って見た目にも整然とするのが特徴。石垣のなかでも隅角は崩れやすく積み方に工夫が必要な場所だったが、戦国末期以降にはこの隅角に算木積が用いられるのが一般的であった。この他、桝形門の突き当たりの部分など、人目に付きやすいところに算木積が採用された例もある。算木積が見られる城としては香川県の丸亀城などがある。

三重櫓

三重櫓とは、日本の城を構成する要素である櫓について、その屋根の数に注目して分類したときの種類のひとつである。ひとつの櫓について屋根の数が単独なら平櫓、2層なら二重櫓、3層なら三重櫓と呼ぶ。櫓とは、敵の監視をはじめ、収蔵、防備の役割をかね備えた建物のことで、様々な形状が考案されていた。平櫓や二重櫓ではシンプルな外見になることが多かったが、三重櫓程の規模になると天守閣のように城内でも特別な雰囲気を醸すことが多かった。天守が別にある城郭では、火災などで天守建築がなくなったときには三重櫓を天守の代わりとすることも。三重櫓の現存例としては、青森県の弘前城、東京都の江戸城本丸の富士見櫓、愛知県の名古屋城御深井丸の清州櫓などがある。

三大湖城

三大湖城とは、日本にいくつかある湖城のなかでも特に名城であるとして選ばれた3つの城のこと。長野県の高島城、滋賀県の膳所城、島根県の松江城とされるのが一般的。湖城とは水城の一種で、湖に面している城のことである。湖が堀の代わりとなって城を防御する役割を果たすよう城郭が設計される。ただし、三大湖城とされる城のうち、島根県の松江城の他は湖が埋められていたり、城郭がなくなってしまっていたりする。名城を知る目安になる物として「日本100名城」があるが、こちらは財団法人日本城郭協会が文部科学省・文化庁の後援を得て選定した物であるのに対し、三大湖城は公的な団体によって選定されたわけではなく、いつの間にか多くの人にそうイメージされるようになった物である。

三大平山城

三大平山城とは、日本にある平山城のなかでも岡山県にある津山城、兵庫県にある姫路城、愛媛県にある松山城の3つ城のことを指す俗称。平山城とは、小山や丘陵部と平地を利用して造られた城で、山城と平城の性質を併せ持つ城のこと。三大平山城のうち、姫路城と松山城は天守が現存しているが、津山城は1873年(明治6年)の廃城令により天守が取り壊されてしまっている。優れた城の目安になる物として「日本100名城」があるが、こちらは財団法人日本城郭協会が文部科学省・文化庁の後援を得て選定した物。それに対し、三大平山城はなんらかの公式団体によって選定されたわけではなく、いつの間にか人々の間でそう考えられるようになった物である。

三大水城

三大水城とは、日本にいくつか造られた水城のなかでもトップ3の名城であるとして選ばれた物のこと。名城を列挙する物として「日本100名城」があるが、こちらは財団法人日本城郭協会が文部科学省・文化庁の後援を得て選定した物であるのに対し、三大水城はいつの間にか多くの人にそうイメージされるようになった物。公的な団体によって選定されたわけではない。また、水城とは海や川、湖に面している城のことで、平坦な地に建てられる平城の一種とも言える。海や川、湖が堀の代わりとなって城を防御する役割を果たしてくれる。三大水城は、往時には3重の堀に海水を引き込んだ愛媛県の今治城に加え、香川県の高松城、大分県の中津城とされるのが一般的である。

三大山城

三大山城とは、日本の数ある山城のなかでも、岡山県にある備中松山城、岐阜県にある岩村城、奈良県にある高取城の3つ城のことを指す俗称である。名城であるかどうかの目安になる物として「日本100名城」があるが、こちらは財団法人日本城郭協会が文部科学省・文化庁の後援を得て選定した物。それに対して三大山城は公的な団体によって選定されたわけではなく、人々の間でいつの間にかそう考えられるようになった物である。また、山城とはその名の通り山にある城で、山頂の平坦部から段状に曲輪を配置した形状の物のこと。三大山城のうち、岩村城は標高約721mと山城のなかでも最も高い位置にある。高取城は標高約583m。備中松山城は標高430mの位置に現存天守を持つ。

三の丸

三の丸とは、日本の城の区域内に置かれる曲輪の名称である。曲輪とは土塁や石垣などで分けられた一定の区画のことであり、城はいくつかの曲輪を並べてひとつのまとまりとして構成される。こうした複数の曲輪のなかでも最もメインと言える本丸を守護するのが二の丸、さらに二の丸を守るのが三の丸の主な役割である。三の丸の配置方法は様々な物が考案されていたが、二の丸を囲むように構えたり隣接させたりして、城へ攻め込むときに三の丸を通って二の丸へ進む設計にされるのが基本。戦のときには、三の丸までが戦闘の中心的な区画になるため、防御面も重視されていた。また、三の丸には重臣が暮らす屋敷や、馬を飼育する場所、城主のための厠、蔵などが置かれた。

三名城

三名城とは、日本に数多く建てられた城のなかでも、トップ3の名城とされる物を指す俗称である。三大名城などとも呼ばれる。城の文化的価値の高さを表わす目安には財団法人日本城郭協会が文部科学省・文化庁の後援を得て選定した「日本100名城」があるが、これに対して、三名城は公的な団体によって選定されたわけではなく、いつの間にか一般的にそう考えられるようになった物である。荻生徂徠の「鈐録外書」では、城造りの名手である加藤清正、藤堂高虎が普請した物のうち、特に機能美に優れた大阪府の大阪城、熊本県の熊本城、愛知県の名古屋城が選ばれている。しかし、どの城が三名城に含まれるかは時代や定義によって異なり、いずれかの城の代わりに兵庫県の姫路城や長野県の松本城が含まれる場合もある。

支城

支城とは、日本の戦国時代において、中核となる城を守るように造られた出城や砦、陣屋などのことを意味する。これに対して、支城に補助されながらある一定の地域の中心的な位置づけにある城は本城(ほんじょう)、あるいは根城(ねじろ)と言う。本城に対する物は支城、根城に対する物は枝城(えだじろ、えだしろ)と呼ぶのが一般的。例えば、御北条氏は小田原城を本城として関東広域を支配していくなかで多数の城を築いた。なかでも戦略上の重要な城の周辺に中小の支城群を配置して領国の統治を図るとともに、外敵からの攻撃に備えた。

下見板張

下見板張とは、板張りの壁のこと。日本の城では塗り壁の一種である漆喰を使うことが一般的であったが、下見板張ではこの漆喰を使わない。日本で城が多く建てられた時代のなかでも初期の頃には良く用いられた。横長の板を下の部分が重なるように隙間なく張り合わせていく物で、下見板張の名称は、板が下を向いている形状に由来する。漆喰が使われるようになると、壁の上部を漆喰にして下部のみ下見板張にした物や、壁全面を漆喰にする城が増えていった。しかし豊臣秀吉の時代には、下部に防腐材として黒漆や柿渋を塗った下見板張りを用いる方法で、いくつかの城が建造された。例えば長野県の松本城では、天守の外壁は各階とも上部は白壁、雨が染みやすい下部は黒漆で塗った下見板で覆われている。

漆喰

漆喰とは、日本の建築物の壁に使われる素材のひとつ。消石灰を主な原料にした物で、壁の表面に塗り付け、乾燥させて使用する。瓦などの目地を埋めるときにも用いることがある。仕上がりは白色。防火素材であり、下地が土壁の場合は調湿機能も期待できる。日本の城や社寺においても、土壁より耐水性が高い点などが好まれて外壁などに採用されている。風や雨を受けると劣化しやすく、修繕をまめに行なうことになる点がデメリット。漆喰は日本で1400年以上の歴史を持ち、安土桃山から江戸初期にかけて、消石灰と海藻を炊いた糊(のり)、麻すさと混ぜる方法で作られるようになった。この製法の物は「本漆喰」と呼ばれ、他にも様々な製法の物が開発されている。

忍び返し

忍び返しとは、城などの建物の軒先に刀や槍と言った刃物を張り出させた造作のことである。忍の者が建物のなかへこっそりと入りこむのを防ぐために設けられた物である。熊本城の二の天守閣をはじめ、愛知県の名古屋城天守閣や高知県にある高知城天守閣などで採用されている。同様の目的をもって建物その物の一部を張り出させて築いた物も忍び返しと言う。例えば、熊本城天守閣では最下層が石垣より外に飛び出したようなフォルムになっている。また、盗難を防止したり外から予期せぬ生き物が建物のなかへ忍び込むのを防いだりするために、鋭い形状の鉄棒や、竹や木の先を尖らせた物などを塀の上に並べることも忍び返しと呼ぶ。

鯱は、日本の城において用いられることがある装飾物のひとつ。愛知県の名古屋城天守閣の屋根上にある金の鯱が特に有名である。本来は「しゃち」と読み、体は魚のようで、頭部は竜や獅子、鬼などの姿に表現される架空の生物をモチーフにしている。水族館などで見られる実在の海獣、シャチとは全く関係がなく、古代の中国(漢)の人々が想像から創り上げた動物である。波を起こし、雨を良く降らすと言われる海魚で、火除けのまじないとして建築物の棟飾りに使われ始めた。奈良時代に日本へ伝わり、当初は多数の寺社で棟飾りとして流行したが、そののちは人気が下火となり、室町時代以降に城が各地で建造されるようになって再び注目されるようになった。「しゃちほこ」の名は、屋根上の鯱が、鉾(ほこ)を逆さに立てた形に似ていることに由来する。

書院造

書院造とは、日本に古くから伝わる建築様式のひとつ。畳を敷き詰めた座敷や、付書院など各部屋を仕切って役割も持たせた物で、床の間や違い棚、帳台構と言った設えがあるのが特徴的。室町時代に始まり、安土桃山時代には城の御殿建築として隆盛し、江戸時代に完成した。それよりも前の平安時代、公家の住宅様式であった寝殿造から発展した物である。和風建築物に見られる床の間や角柱、明り障子、襖、雨戸などは書院造から生まれた物。書院造の建物例としては銀閣寺(慈照寺)の東求堂同仁斎が現存最古の物として有名である。

障子掘堀

障子堀とは、日本の城の敷地内に造られることがあった防御用の設備で、堀の一種である。堀とは、地面を細長く掘って造った構造のことで、外部から敵や動物が侵入するのを防ぐ目的で城郭建築において多数採用された。堀はなかに水を引いた水堀、水を入れない空堀の2種類に大別され、それぞれ様々な形状の物がある。なかでも障子堀は、堀の底に障子の桟のような格子状の畝を設けた物。似たような物に空堀の底に土手を掘って、直交に区画する「畝堀」(うねぼり)があるが、障子堀はこの発展形である。堀障子とも言う。障子堀は神奈川県の小田原城などいくつかの城で造られ、遺構が見られる場所として静岡県三島市の山中城(やまなかじょう)などがある。

正保城絵図

正保城絵図とは、江戸幕府の3代将軍家光が1644年(正保元年)に各大名に提出を命じた城絵図のことである。大名たちはこの命に応じて、人口と石高の記録である郷帳、さらに国絵図などとともに実際に城絵図を提出している。城絵図とは、ある城について敷地内の曲輪(くるわ)の位置や周りの地形などを表現した絵図のこと。正保城絵図には城郭の外観や構造が精細に描かれていた。また、本丸などの間数や井戸がある場所、石垣の高さ、堀の深さ、さらには城郭周辺の町割、そのなかにある社寺名、海や川の水深、城より高い地にある山や丘陵についての数値差なども記載がある。この命の目的は、全国の大名が持つ城について徳川家が機密を掌握すると同時に、軍事施設としての情報を幕府に知らせることで幕府への服従を表明させることにあった。

城とは本来、敵の攻撃を防ぐために築かれる軍事的な構造物のことである。中核となる建物の他、堀や垣、門などが様々な配置で並べられる。また、そうした構造物を建てるのにふさわしいと人によって選ばれた土地その物も城に含む。ただし、城の概念については諸説がある。城はその文字の成り立ちから土塁が源泉になったと考えられていたが、「人民を集めて容れて守る城壁」と言う意味からなると解釈されることもある。日本における城は江戸時代に入ってから役割が変化した。江戸時代以降は軍事的な要塞としての一面は形骸化し、各大名の権威の象徴であると共に、各地域の治安維持のための、政治の拠点となった。世界各地に城の遺構が残っている。

城跡

城跡とは、かつて城郭が建造されていた跡のことを意味する。城址(じょうし)とも言う。城の建物その物があった場所はもちろん、城があった区域一体も城跡に含むのが一般的。城跡はその遺構として石垣や堀などが残っていたり、復元・復興されていたりすることがあるが、何も残っていない場合もある。城跡公園、あるいは城址公園として整備している自治体も多い。城跡公園内に動物園や博物館などが建築され、観光スポットとして親しまれているケースもある。例えば真田幸村らの居城となった長野県の上田城の跡は上田城跡公園となっており、隅櫓や虎口櫓門、堀、土塁など往時を偲ばせる建造物がある他、上田市立博物館や観光会館などもエリア内に点在する。

城絵図

城絵図(しろえず)とは、日本の城について、敷地内の曲輪(くるわ)の位置や周りの地形などを表現した絵図のことを意味する。一般的には、中世から近世にかけての城が対象の物を指す。特に、江戸幕府の3代将軍家光が1644年(正保元年)に、全国の大名に命じて国絵図などとともに提出させた「正保(しょうほう)城絵図」は、城郭の構造から周囲の地形の特徴など精細に描かれていた。城絵図の作成は江戸幕府が発布した「幕府仕法」と言うマニュアルをもとに行なわれ、もし、その城を攻め落とすことになったときは、砲撃をするにはどの辺りに砲列を敷けば届くか、町内のどの道に兵を進めると良いかと言ったことまで記載することが決められていた。

城下町

城下町とは、日本にある都市形態のひとつ。戦国時代から江戸時代までに築かれた城を中心に、その周辺地域で発展した町のことである。武士、商人、僧などが集まり、職業ごとに区分された場所で暮らすことが多かった。町がどこまでであるのかを示す城壁は設けないのが基本であったが、豊臣秀吉が京都府に造った御土居や、北条氏が手掛けた小田原城の囲郭など特殊な例もある。防衛する性格も持たせるため、堀や土塁、石垣、隙間、袋小路など、敵が城へ到達しにくい構造が随所に盛り込まれている。例えば、長野県の松本城の城下町では、道路をあえてずらして交差させた「食違」など複雑な町の構成が名残として見られる。

城柵

城柵とは、大和朝廷が日本に君臨していたころに築いた軍事的拠点、あるいは行政を執行するための施設である。古代において東北に住んでいた民族である蝦夷(えぞ)を平定して国家を拡大する目的で、主に東北地方に建造された。厳密には城(き)と柵(き)と言う2種類に分類され、日本書記や続・日本書紀に「城柵」とまとめた形で登場している。柵は本拠の周りに空堀をめぐらし、20〜30cmの高さの木材を地面に縦に差し込んで柵のように並べた物。丘の上におかれ、中心部には寺社があり、住民の集落があるなどの形状がとられた。こうした城や柵は多数造られ、それぞれに多賀城、玉造柵などと名称があったとされる。奈良時代以降も城柵は存在し、東北地方などの統治のために用いられていた。

城代

城代とは、中世には、日本の城において主が不在のときに代わりに城を治める役割のことを意味する。城主が戦に出て留守にしているときなどに任務にあたる。家臣がこれを任せられることが多かったが、当時は本城を補佐する支城や端城と言う物があり、そうした支城などが所在する土地の豪士が務めることもあった。城代を立てるときには、城主から守るべき掟をまとめた書が城代へ出されることも。江戸時代になるとやや意味合いが変わり、幕府所有の城を将軍に代わって管理したり守衛したりする者のことを城代と言う。京都府の二条城と伏見城、大阪府の大坂城、静岡県の伏見城の、4つの城に城代が置かれ、例えば大坂城の城代は譜代大名が交代でこれにあたっていた。

城番

城番とは、戦国時代以降の中世から近世の日本において、城を守衛する役割のことである。番手衆(ばんてしゅう)、在番衆(ざいばんしゅう)とも言う。一般的には城代を補佐する立場にあり、城の門櫓の守備などを行なう兵を意味する語であるが、城代と同じ意味で用いられる場合もある。城代とは、城の本来の主が戦に出て留守にしているときなどに代わりに城を守衛する役割で、家臣や支城などがある土地の豪士が任せられることが多かった。また江戸時代には幕府のもとで城代を補佐する人のことを城番と言った。特に江戸幕府が京都府の二条城に置いた城番は二条城番、大坂城に置いた者は大坂城番と呼ばれた。

陣城

陣城とは、戦国時代において、城攻めのときに都合のいい場所に築かれた臨時的な城郭のことを意味する。円形か四角形の物が標準であった。居城とされる一般的な城と比べると簡易な物であり、周りには空堀や土塁を巡らしたり、陣幕を配置したりするのが基本。戦が終了すると廃城にされることも多かった。陣城を活用した武将に、江戸城を築城したことで知られる太田道灌(おおたどうかん)がいるが、道灌は城ひとつを攻め落とすのに陣城をひとつ築いた。また、豊臣秀吉の陣城はそれ以前の陣城のあり方を覆す物が多いことで知られ、1590年(天正18年)に行なった小田原攻めでは、総石垣や櫓を備えた立派な造りの石垣山城(いしがきやまじょう)を陣城として築いている。

陣屋

陣屋とは、江戸時代において、在地の政治や支配を行なう際、兵が宿営をするために築かれた館のことである。平地や丘陵地に単独の曲輪(くるわ)で構成されることが多く、堀や土塁などを設ける場合もあったが、戦に対応できるレベルの建造物ではなかった。陣屋を持ったのは、3万石以下程度の城を所有できない大名など。他に、旗本のなかでも上級の者や大きな藩の家老が知行地にて陣屋を構えることがあった。幕府直轄領において代官が暮らす館や、役所を置いている建物も陣屋と呼ばれる。江戸時代には城を所有するには幕府の許可が必要だったが、無城の大名が城主を所有できる大名へと昇格した場合であっても、もとの陣屋を城に変更することはできず、陣屋の周りに城門の構築を許される程度であった。

捨堀

捨堀とは、日本の城における櫓のひとつ。曲輪と呼ばれる一定のスペースを区切る囲い、あるいはその範囲内のスペースの角に築かれた櫓のこと。角に位置しているため、複数方向の敵の動きを察知することができ、攻め込まれた場合でも防御しやすいと言う利点もある。日本の城のほとんどが採用している櫓である。一重から三重まであるが、二重櫓構造になっていることがほとんどである。江戸時代においては、一国一城の令がきっかけで大きな天守築造が困難になり、曲輪の石塁や土塁の隅角に建てられた隅櫓を改築し、それを天守としたこともあった。また、外部の水路と繋がりを持たない溜め池のような堀のことも捨堀と呼ぶ。

隅櫓

隅櫓とは、日本の城の敷地内において、曲輪(くるわ)の石塁や土塁の隅角に建てられる櫓のこと。櫓とは、敵の監視などを意味する物見と収蔵、防備の役割をかね備えた構造物で、城の構成要素のひとつである。曲輪とは石塁などで囲われた一定の区画のこと。この曲輪の角にある隅櫓は、敵の動きを察知しやすく、城の防衛力を高めるにも役立つ。江戸時代には一国一城令によって天守を築造するのが困難になったことから、すでにある隅櫓を改築して天守とすることもあった。単層か二重層を中心に、たくさんの城で採用例がある。現存する三重層の隅櫓としては、青森県の弘前城にある二の曲輪の丑寅櫓・辰巳櫓・未申櫓、東京都の江戸城本丸にある富士見櫓、愛知県の名古屋城御深井丸にある清州櫓などがある。

勢溜

勢溜とは、日本の城において、兵をいったん集めて待機させるために設けられる一定の広さを持ったスペースのこと。戦の際に主な出入り口となる虎口(こぐち)の近くにあることが多い。武者だまりとも言う。虎口が桝形の区画になっていて勢溜の機能を持っている場合、そび広さは鎧を着た武士が240人、騎馬30騎が入れる132㎡程度の物が標準。城の外側からはそこに城兵が隠れているとは分かりにくいように設計される。反対に、攻めてくる敵兵の勢いを止めるために桝形門の内側や外側に設けるスペースは「勢留」(せどめ)、あるいは「武者留」、「馬屯」と呼ぶ。また、島根県の出雲大社では、ある鳥居の周りに芝居小屋などがあって人が集まる賑やかな場所であったことから、勢いが溜まると言う意味でその場所を勢溜と名付けている。

箭眼

箭眼とは、日本の城における設備のひとつ。矢狭間(やさま)と同義語で、狭間(さま、はざま)の一種である。箭は矢の意味を持つ漢字。狭間とは城を攻めて来る敵を撃退するために矢や鉄砲を放つ目的で、建物の壁などに設けられる小さな窓のような穴のことである。狭間のなかでも矢を放つのを主目的とした物が矢狭間で、箭眼のこと。鉄砲を撃つのが中心の物は鉄砲狭間、あるいは銃眼と言う。狭間は丸や三角など様々な形があるが、箭眼は箱狭間と呼ばれる四角形をなすのが一般的。箭眼が見られる城は各地にあるが、なかでも兵庫県の姫路城には997もの狭間が現存しており、四角形の箭眼と三角形の銃眼が並ぶ土塀などもあって分かりやすい。

千畳敷

千畳敷とは、畳1,000枚分もの広さがあると例えられる程、広がった平坦な地形のことを意味する。地名や観光地として知られるが、古くは日本の城郭の敷地内においても、広々とした平地のことを指して使われていた用語である。削って平地にした場所や、城郭のエリア内にあって面積が非常に広いスペースについて名付けられることが多く、中世、近世いずれの城郭においてもこの地名が存在した例は少なくない。千畳敷の名は、廃城となる前に御殿が建っていたことに由来するとされているが、実際にはその場所にかつて御殿がなかった場合もある。豊臣秀吉の建てた大坂城には千畳敷と名付けられた大規模な広間があったとされるが、真偽や詳細は明らかにはなっていない。

全国城サミット

全国城サミットとは、日本において城や城下町が所在する自治体が共同で開催したイベントの名称である。各地の城郭・城下町の関係者、城マニア、歴史マニアなどを対象に、情報の共有や発信、城郭を活かした地域活性化などを目的とした行事を実施する。初回は2013年(平成25年)に福島県で開催された「第一回全国城サミットふくしま大会」で、会津鶴ヶ城本丸や会津若松市内の各所で実施。シンポジウムや県内城を巡るバスツアー、なぎなた演武などの伝統武道のステージ、武将隊パフォーマンス、地元の銘酒や料理を楽しむ懇親会などが行なわれた。回によっては城マニアの芸能人や各地のゆるキャラなどがゲストとして登場したり、各地の城がパネルで展示されたりといった催しが実施されたこともある。

全国山城サミット

全国山城サミットとは、山城や城下町が所在する全国各地の自治体が共同で開催しているイベントの名称である。情報交換などを行なうことにより親睦と交流を深め、山城の保存方法や観光資源としての山城を生かした地域活性化を図り、豊かなまちづくりを進めるのが目的とされている。会場は各地の山城やその城のある市区町村など。初回は1994年(平成6年)に朝来市(当時の和田山町)で実施し、そののちは1年に1回のペースで開催され、多くの自治体が参加している。内容は回によって異なるが、城郭研究者などによる城の解説、講演、市民研究の発表などである。サミット開催に合わせて、開催地の観光協会などが城に関する特別ツアーなどを企画した例もある。

総曲輪

総曲輪とは、日本の城において、城下町も含む城郭一体の外周を区切る構造物のこと。曲輪とは一定のスペースを区切る囲いやその範囲内のスペースのことを意味し、城の敷地内は複数の曲輪で区切られていたが、その全体を囲む物が総曲輪である。「総構え」、「惣構」(そうがまえ)、「総郭」(そうぐるわ)とも表現する。土居や石垣、堀などが配されるが、構造物が堀によって形成されると「惣堀」と呼ばれる。総曲輪を設計した城としては大阪府の大阪城や神奈川県の小田原城などがある。例えば小田原城は、北条氏が関東を支配するための拠点として整備拡張した物で、豊臣秀吉が攻めて来ることに備えて総延長約9kmもの総曲輪を造ったことで知られる。

層塔型天守

層塔型天守とは、日本の城のなかでも象徴的な施設とされる天守について、建築様式に注目して分類したときの種類のひとつ。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前後から登場した望楼型天守をもとに、高層化に適した形状に発展させた物で、上下の層に通し柱が通されているのが特徴。慶長中期から元和期以降に造られた天守はほとんどが層塔型となっている。下層が幅広く、上層程規則的に面積が狭くなる。設計段階から全層が一体として考えられているので、外から見たときと実際に内部にある階数が一致する。てっぺんから4方向へ下ろす形状の寄棟屋根を採用するのが一般的で、千鳥破風や唐破風を飾りとして付けることもある。層塔型天守の代表的な例としては徳川氏が再興した大坂城の天守や、愛知県の名古屋城など。

惣堀

惣堀とは、日本の城における堀を、位置関係に注目して分類したときの種類のひとつである。堀とは、地面を細長く掘った構造のことで、戦国時代にも敵や動物の侵入を防ぐなどの目的でほとんどの城で採用された。規模の大きな城では堀は何重にも形成されたが、城下町も含めてその周りをぐるりと囲んだ最も外側の堀を「惣堀」と言う。すなわち、城と城下町一体の外周を区切る構造物を「総構え」あるいは「惣構」(そうがまえ)や「総郭」(そうぐるわ)と呼ぶが、こうした構造物を堀によって形成した物が惣堀である。惣堀があった城としては豊臣秀吉が建てた大阪府の大阪城が有名。1614年(慶長19年)の大阪冬の陣のときにはこの惣堀の存在も徳川軍を苦しめる大きな要因になったことで知られる。

惣門

惣門とは、一般的には屋敷や禅宗寺院の外囲いの大きな門や正面の門などのことを意味するが、かつては日本の城郭において、総曲輪に配置される出入り口のことも指していた。総曲輪とは城の建物はもちろん、城下町なども含んだ城郭一体の外周を区切る構造物のことで、土居や石垣、堀などが配されるのが一般的。その総曲輪へ敵が侵入するのを防ぐため、惣門は規模の大きな桝形(ますがた)門を築くことが多かった。桝形門は、壁で四角形の区画したスペースをなかに持つ門のことで、防御力が高い。大名の居城では惣門の前に、敵兵の侵入を妨げる「馬出」(うまだし)が設けられる例もあった。今では取り壊された物が多く、山口県の萩城などで復元された総門を見ることができる。

外堀

外堀とは、城において堀がどんな位置にあるかに注目して分類したとき、用いられる名称である。堀とは、地面を細長く掘った構造のことで、日本では遺跡の発掘調査によって弥生時代から存在したことが分かっている。戦国時代にも敵や動物の侵入を防ぐなどの目的でほとんどの城で採用された。城において堀は何重にもなって形成されたが、区域一体をぐるりと囲む物が「外堀」である。他に城の区域内において本丸などの曲輪を囲む「内堀」や、外堀と内堀の中間に位置する「中堀」がある。外堀は人の手によって掘った物もあれば、もともとあった河川を利用した物もあった。外堀の解釈は人によって異なる場合もあるが、城下町も含めてその周りをぐるりと囲んだ最も外側の堀は外堀とは区別して「惣構」と呼ぶこともある。

投稿ユーザ様募集
掲載施設様様募集

投稿ユーザーの方へ

パスワードを忘れた方

投稿ユーザーに登録する

投稿ユーザーに登録される方は、
「投稿ユーザーに登録する」ボタンを
押して下さい。

施設検索/ホームメイト・リサーチ公式キャラクター 歌舞伎パンダ「検太郎」
施設検索/ホームメイト・リサーチLINE公式アカウントをご紹介!
ホームメイト・リサーチ公式アプリ ピカ写メのご紹介!
「ピカ写メ」アプリの機能をご紹介。ダウンロードはこちらから!
施設のお役立ち情報「生活施設辞典」
生活施設に関する、知っておくと便利な情報・役に立つ情報が満載!

施設検索ホームメイトリサーチは、
モバイルでもお楽しみ頂けます。

スマートフォンからも、サイトをご覧頂くことができます。
携帯からも、サイトをご覧頂くことができます。
デバイスイメージ

その他、タブレットでもご覧頂けます。
施設検索ホームメイト・リサーチご紹介ページ

いつでもどこでも「施設検索/ホームメイト・リサーチ」サイトへ一発アクセス!
タブレットやスマートフォンから弊社サイトへすぐにアクセスできる便利なボタンを設定できます。