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徳川家歴代の側室



1618(元和4)年に徳川幕府の二代将軍である秀忠(ひでただ)が「大奥法度」を制定してから、江戸城本丸、西の丸には大奥と呼ばれる男子禁制の館ができることとなりました。それから江戸城が明治政府に開城されるまで大奥は存続し、そこには将軍の正妻ではない側室も多く住んでいました。側室たちは将軍の寵愛を得るための様々なドラマを展開しました。ここではそのなかから3人の側室を紹介します。

お万の方

お万の方

のちに春日局(かすがのつぼね)となる、三代将軍・家光(いえみつ)の乳母・お福は、家光の男色好みを変えるために多くの側室を家光に斡旋します。家光はなかなか男色好みを変えずにいましたが、それを変化させたのがお万の方でした。1624(寛永元)年に京都で生まれたお万の方は、六条宰相・藤原有純の娘であり公家出身でした。そして彼女は16歳のときに尼寺に入りますが、19歳のときに江戸城へ登城した際に、家光に見初められます。尼から側室へと転身したお万の方は、春日局の死後にはそのあとを引き継ぎ、さらに家光の死後は大奥の総取締役となります。お万の方が亡くなったのは1711(正徳元)年、88歳のことでした。

お喜世の方

1685(貞享2)年に江戸浅草に生まれたお喜世は、加賀藩前田家の江戸屋敷に出仕していた勝田玄哲の娘です。浅草生まれとあって明るく快活な性格でもあったお喜世は、浅草小町とも呼ばれる美貌の持ち主でした。お喜世は大名屋敷での奉公を望み、20歳のときに徳川綱豊(つなとよ)の江戸屋敷へと奉公をします。お喜世は綱豊から寵愛を受けますが、その綱豊は五代将軍・綱吉(つなよし)の養嗣子となり、また1709(宝永6)年には家宣と名を改めた綱豊が正式に六代の将軍となるとお喜世は本丸の大奥に入りお喜世の方となります。彼女は7代将軍の家継(いえつぐ)を生み、家宣の死後には出家して月光院となります。その後も天皇家と息子の縁組を推し進めました。しかし家継もわずか8歳で急死するなど、決して幸福な生涯ではありませんでした。

お琴の方

お琴の方は、紀州藩35,000石の城主・水野忠啓(ただあき)の四女「お広」として生まれました。お広は兄の勧めにより大奥奉公に出ます。名門出身の彼女が奉公に出るのは、兄・忠央(ただなか)の野心によるものでした。お広は12代将軍・家慶(いえよし)の目にとまり側室となると、お琴の方と呼ばれるようになります。お琴の方は家慶の寵愛を一身に受けますが、家慶の死後は剃髪します。しかし、二の丸御殿の模様替えとして働きに来た大工と逢瀬を重ねるようになると、この不倫事件が世間に知られるところとなり、程なくしてお琴の方は亡くなります。その原因ははっきりとは分かっていません。