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春日局



徳川二代将軍の秀忠(ひでただ)の時代から、徳川幕府の終焉まで存続した大奥では多くの歴史上の人物が輩出されましたが、中でも春日局(かすがのつぼね)は有名です。のちに小説や映画、大河ドラマにもなった春日局の生涯は波瀾万丈のものでした。ここに春日局の生涯とそのエピソードを見ていきます。

江戸城へ入るまで

江戸城へ入るまで

春日局は本名をお福と言い、1579(天正7)年に明智光秀の重臣である斎藤利三(としみつ)と、稲葉通明の娘・おあんとの間に生まれます。利三は山崎の合戦で自決し、お福は4歳で父親を失います。丹波の国を離れ京都に移り住んだお福は、13歳のとき、公家へ奉公に出ます。

その後、美濃国の稲葉重通(しげみち)の養女となり、1595(文禄4)年に稲葉家の養子である正成(まさなり)の後妻となります。しかし、正成の主君である小早川秀秋(こばやかわひであき)は関ヶ原の戦いで西軍でありながら東軍に通じ、それを画策した正成は秀秋から遠ざけられるようになり、浪人となりました。

お福は京都の母のもとへ身を寄せますが、二代将軍の秀忠に子どもが生まれ乳母を必要としていることを知ると、京都所司代であった板倉勝重(かつしげ)の推挙を受けて江戸へ下ることとなりました。これには、夫のもとを離れる直前にお福が四男を生んだばかりであったことも功を奏したようです。

竹千代の乳母として

26歳のお福は夫と正式に離縁し、長男を連れて江戸へ向かいます。乳母として面倒を見ることになった竹千代は、のちの三代将軍家光(いえみつ)となる人物でした。しかし、病弱で少し知恵も遅れていたという竹千代は、お福が乳母になって2年後に生まれた弟・国松と世継ぎ争いをすることとなります。このときにお福は執念とも言える尽力をし、竹千代を将軍にしようと奔走します。駿府に住む家康の側室に取り入り、竹千代を推挙するように働きかけました。そして遂に家康は江戸へ赴いた際に、息子の秀忠に、弟である国松ではなく兄の竹千代を次の将軍とするようにとの進言をしました。そして1623(元和9)年、家光は20歳で三代将軍職に就くこととなりました。

女中総取締として

家光が将軍となると、お福は大奥の総取締役となります。そして、将軍の乳母であったという身分でありながら御水尾天皇への謁見が叶い、そこで春日局という称号を与えられました。晩年は屋敷を与えられそこに住みますが、1643(寛永20)年9月24日に病没します。享年65歳でした。