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城の埋蔵金伝説



かつて封建社会においては、誰もが富を得るチャンスをもっていた訳ではありませんでした。一国の支配者に富は集中され、またそれを継承するため、奪い取るための争いも繰り返されました。一度富を手にした者は、何とかしてそれが他者の手に渡らないような工夫を施します。また、財産ごと保管場所が焼けたり攻め落とされたりすることにより、誰かの手に渡ることなく地中に眠る場合もあります。これらは「埋蔵金」とよばれ、今も多くの人たちが関心を寄せています。

埋蔵金伝説とは

埋蔵金伝説とは

日本にはいくつかの埋蔵金伝説が残されています。これらがいまだに信憑性を保っているのは、かつて埋蔵金が発掘された事実があるからです。その中でもっとも代表的な例は、1963(昭和38)年に東京で発見された物です。天保小判1,900枚と、およそ78,000枚の天保二朱金が工事現場から出土され、当時の価値で6,000万円にも及んでいたことも合わさり、一大ニュースとなりました。この埋蔵金は江戸時代末期に酒問屋である鹿島清兵衛(かじませいべい)が埋めた物だということが分かり、その子孫に返されました。しかし、埋めたのが商人ではなく大名であれば、その金額はより多額になるはずです。そこで様々な文献や残された噂から、諸大名により残された埋蔵金を発掘しようとする人たちが現れました。

埋蔵金伝説を残した大名

多くの地域に埋蔵金伝説は残されていますが、中でも有名な伝説を見ていきます。

徳川埋蔵金

徳川家がどこかへ隠していたという埋蔵金は、明治政府が誕生した時点から探索されていた物です。というのも、新政府は徳川家が所有していたはずの御用金をあてにしていたのですが、江戸城内の金蔵には何も残されていませんでした。政府はかつての勘定奉行であった小栗忠順(おぐりただまさ)にも探索の手を伸ばし、忠順の隠棲先であった群馬県にまでそれは及びました。そして忠順が政府により斬首刑となると、幕府の隠し金は忠順が持ち出していて、それは赤城山に隠されているという噂が立つようになります。

武田信玄の軍用金

武田信玄は、甲州金とよばれる金貨をつくり貨幣制度を確立しました。また鉱山を切り開き多くの金脈を発見したことにより、信玄が軍用金として埋蔵金を隠し持っていたと考えられるようになりました。

豊臣秀吉の埋蔵金

兵庫県南東部の多田銀銅山には、鉱石を採掘するために多くの坑道が掘られました。その複雑な道の中に、秀吉が朝鮮出兵の際に用意した軍用金が眠っていると言われています。