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丹羽長秀と城



丹羽長秀(にわながひで)は、1535(天文4)年9月20日~1585(天正13)年4月16日に生きた戦国武将です。彼の生涯とゆかりのある城について紹介します。

丹羽長秀の生涯

丹羽長秀の生涯

丹羽長秀は幼名を万千代と言いますが、その父である長政以前の出自については不明な点が多い一族です。長政は斯波氏(しばし)の家臣であったとされますが、長秀は1550(天文19)年ころより、織田信長のもとに出仕します。初陣は1553(天文22)年の梅津表の合戦でした。

その後、信長と弟の信行(のぶゆき)との間に起きた家督争いがきっかけとなった稲生(いのう)の戦いや、桶狭間の戦いに従事し、信長の家臣として徐々に頭角を現し始めます。

そして、織田信広(のぶひろ)の娘と結婚することで信長一門の一人となります。1563(永禄6)年には、小牧山城築城に際して奉行を務めています。美濃を攻める拠点として建てられたこの城には、主君である信長が居城することとなりました。その後は姉川の戦いでの功績が認められ、1571(元亀2)年に近江国の佐和山の領主となり、佐和山城の城主となります。また、武田勝頼(かつより)との長篠の戦いに参陣し、その後は信長から若狭国も任されることとなり、後瀬山城の城主となります。

このようにして、信長の覇業とともに長秀自身も出世をしていきますが、最大の仕事は信長が安土城を築城する際に、普請の総奉行に任命されたことです。その3年後に安土城の天主は完成しました。しかし信長が本能寺の変により倒れると、長秀は羽柴秀吉へと随身します。もともと、秀吉とは信長の同世代の家臣としてともに戦った間柄でした。秀吉の姓である「羽柴」とは、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」から取って付けたものだというエピソードは有名です。その秀吉と勝家が清洲会議により袂を分かつことにより分裂が生じると、長秀は秀吉方として勝利に貢献します。そして若狭国に加え、近江、越前、加賀を加増され北ノ庄城を居城とする123万石の太守となります。1585(天正13)年に享年51歳で死去しますが、その死因は胃がんによるものとも、信長亡きあとの織田家をないがしろにする秀吉に憤りを感じ自刃したと言う説もあります。

丹羽長秀と城

長秀は信長の家臣として多くの城を落とし、またその後もいくつかの城に居城しました。しかし長秀の生涯で一番重要な城とのかかわりは、信長により安土城築城の総奉行となったことでした。日本の城郭としては初めての天主を備え、またすべてが石垣作りでできた城郭も、この安土城が最初であるとされています。安土城が信長を象徴する城と言われるのは、長秀が信長の意を汲むことができたからでもある訳です。