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北条氏康と城



北条氏康(ほうじょううじやす)は1515(永正12)年~1571(元亀2)年10月3日に生きた戦国武将です。彼の生涯とゆかりのある城について紹介します。

北条氏康の生涯

北条氏康の生涯

北条氏康は、第二代当主である北条氏綱(うじつな)の嫡男として生まれます。幼名は「千代丸」でした。1529(享禄2)年、15歳のときに元服します。初陣はその翌年、上杉朝興(ともおき)との間に起きた小沢原の戦いでのこととされています。氏康は扇谷上杉氏の本拠である川越城を奪うと、このころから父に付添い政務にも関与するようになります。

そして1541(天文10)年に氏綱が死去すると、第三代当主として北条家の家督を継ぎました。その後、領地をめぐり今川義元(いまがわよしもと)と紛争を起こしますが、これにより氏康は領地であった駿河を失うこととなります。その際に義元が同盟を組んだ関東管領である上杉憲政(うえすぎのりまさ)に対し、1546(天文15)年に「河越の夜討ち」と呼ばれる急襲をかけこれに勝利します。

依然として今川氏との領地争いは続きますが、1554(天文23)年に「甲相駿三国同盟」により、武田氏を含めた三氏の同盟関係が結ばれます。1559(永禄2)年、氏康は息子である氏政(うじまさ)に家督を譲り、自ら隠居します。しかし、その後も氏政の後見として政務の実権を握り続けていました。

その翌年、上杉謙信が関東へ侵攻し、これが小田原城の戦いへと発展します。この戦いでは武田信玄などの助力により謙信を撤退させることに成功しますが、その後も謙信は関東への侵攻を繰り返し、緊張関係が続きました。1566(永禄9)年からは氏康は本格的に隠居するようになります。晩年には中風を患っていたという氏康は、1571(元亀2)年に死去します。享年57歳のことでした。

北条氏康と城

北条氏が長年居城とした城は、1416(応永23)年に小田原へ進出した大森氏により築城された小田原城です。大森氏を滅ぼした北条早雲(そううん)が小田原城へ入城すると、100年近く北条氏によって引き継がれました。氏康も小田原城を居城とした一人です。

小田原城

この城の山王口にはかつて北条稲荷と呼ばれる神社がありました。これは氏康の息子である氏政が建てたも物です。これは氏康の存命中のある出来事が理由です。城郭内で鳴いた狐を不吉とした氏康が、「きつね」の文字を句で分けた歌を詠むことで(「夏はきつねになく蝉のから衣おのれおのれが身の上にきよ」)、その凶を狐に返し、その狐が翌朝になって死んだということがありました。翌年になって氏康が死んだのはその狐の祟りによるものだと考えられ、その霊を鎮めるために建てられた物です。