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毛利元就と城



毛利元就は、1497(明応6)年3月14日~1571(元亀2)年6月14日に生きた戦国武将です。彼の生涯とゆかりのある城について紹介します。

毛利元就の生涯

毛利元就の生涯

毛利元就は、安芸国吉田郡山城の城主である毛利弘元(ひろもと)の二男として生まれます。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)ですが、生誕の地は福原広俊の娘である母の実家、鈴尾城であると言われています。毛利元就が4歳のころに広元は隠居し兄の興元(おきもと)に家督が譲られますが、元就は父とともに鈴尾城の支城である多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)へと居城します。

1506(永正3)年に弘元が死去したことにより、元就は10歳の若さで多治比猿掛城の城主となりました。しかし家臣から所領を横領され城からも追われることとなります。

1516(永正13)年に興元が死去すると、その息子である幸松丸が毛利家の家督を継ぎ、元就はその後見人となります。その後、有田中井手の合戦で初陣を果たし、この戦いに勝利します。1523(大永3)年に幸松丸が死去すると毛利家の家督を継ぎ、名を元就と改めます。元就27歳のときでした。家督相続に際し、元就は尼子経久(あまごつねひさ)と敵対関係となり、ここから長きにわたる尼子氏との戦いが始まります。しかしこの間に元就は安芸国一国と、石見国、備後国の一部も支配下におくこととなりました。

1557(弘治3)年、61歳のときに隠居し、家督を嫡男である隆元(たかもと)に譲ります。しかしその後も元就は戦に赴き、尼子氏を滅亡させたのは1566(永禄9)年、第二次月山富田城の戦とよばれる戦いでのことでした。そして1571(元亀2)年、75歳のときに吉田郡山城において死去します。

毛利元就と城

三本の矢の逸話でも有名な毛利元就は、知略に富み安芸の小大名から中国地方を席巻するまでになりました。元就の生涯において最も重要な城は、最期の場ともなった吉田郡山城でした。

吉田郡山城

吉田郡山城が築城されたのは1336(建武3)年、毛利時親(ときちか)によってです。その後長きにわたり毛利家の居城となりますが、元就の代に拡大、強化され、元就の孫である輝元(てるもと)が広島城を築城するまで毛利家の本城となりました。元就が吉田郡山城を修築する際、元就は人柱の代わりに「百万一心」という字の掘られた石碑を建てました。これには「人々が力を合わせれば何事も成し遂げられる」という意味が込められています。また、尼子氏との戦いにおいては3万もの軍勢に取り囲まれましたが、大内氏の助けを借りこれを撃退します。吉田郡山城は、中国地方制覇への拠点でもありました。