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武田信玄と城



武田信玄は、1521(大永元)年12月1日~1573(元亀4)年4月12日に生きた武将です。彼の生涯とゆかりのある城について紹介します。

武田信玄の生涯

武田信玄の生涯

武田信玄は甲斐国の守護、武田信虎(のぶとら)の長男として生まれました。幼名は太郎と名づけられましたが、太郎が生まれたとき、信虎は甲斐統一のための戦いの最中だったため、武田家の居城であった躑躅ヶ崎(つつじがさき)館ではなく、母親が避難していた要害山(ようがいさん)城が生誕の地となりました。

そして16歳のときに元服し晴信と名乗ります。1541(天文10)年に、家臣と協力して父・信虎を追放し、武田家の家督と甲斐国の守護を相続します。家督を継いだ晴信は、周辺国を次々と侵略し1547(天文16)年には分国法である「甲州法度之次第」を制定し、信濃国をほぼ平定します。

その後、越後国の戦国大名・上杉謙信との北信濃をめぐる長きにわたる川中島の戦いの最中、1558(永禄元)年に信濃守護を兼任することになります。その翌年に出家をして信玄の名を号しますが、その後も北条氏康(うじやす)や上杉謙信との戦いを続けます。1572(元亀3)年には三方ヶ原(みかたがはら)の戦いにおいて徳川方の城を落とし、次は織田信長の領地を目指して進軍を続けます。しかし、野田城を落城した直後に信玄はそれ以上の進軍を中止し、帰路である信州駒場において没します。享年53歳でした。

武田信玄と城

信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、讎(あだ)は敵なり」と言う言葉を残しています。信頼のできる人は城に匹敵するという言葉ですが、信玄は人心を掌握するように城のことを把握していました。ここでは信玄とゆかりの深い城について見ていきます。

要害山城

要害山城は、信玄の父である信虎によって1521(大永元)年に築城されました。緊急時の最終防御地として築かれたこの城は、信玄の生誕時に母が身を寄せていた場所でもあります。武田家三代にわたる居城である躑躅ヶ崎館に程近い場所に建てられており、現在は「信玄生誕の碑」が建てられています。

躑躅ヶ崎館

信玄の父・信虎が1521(大永元)年に築城し、その後、信玄、勝頼の三代にわたって居城としたのがこの躑躅ヶ城崎館です。信玄はその生涯において領地を拡大させていきましたが、生涯を通じて居城を移すことはありませんでした。大規模な改修なども行なっていないのは、勝っている間は城を移さないと言う、旧式の考えに則っていたとも言われています。また、城外から水を引き入れる水洗式トイレがつくられており、中には信玄が政務を執るための硯も用意されていました。