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真田昌幸と城



真田昌幸(さなだまさゆき)は1547(天文16)年~1611(慶長16)年7月13日に生存していた戦国武将です。彼がかかわった城について紹介します。

真田昌幸の生涯

真田昌幸の生涯

真田昌幸は、武田家家臣である真田幸隆(ゆきたか)の三男として生まれます。7歳のときに武田家の人質として甲斐国に送られ、武田晴信(のちの信玄)の近習(きんじゅ)となります。その後、信玄の遠縁である武藤家の養子となり武藤喜兵衛と名乗ります。

初陣を飾ったのは1561(永禄4)年、川中島の戦いにおいてです。その後も小田原城攻め、三増峠の戦などに従軍し、1572(元亀3)年には信玄の西上作戦にも参加します。その翌年に信玄が病死すると、信玄の家督を継いだ勝頼(かつより)に仕えることになりました。

その後、父・幸隆、兄の信綱と昌輝が相次いで亡くなったため、昌幸は再び真田家に戻り家督を相続します。1582(天正10)年、主君である勝頼が織田・徳川の連合軍に追われ自害すると、武田家は滅亡します。昌幸は信長に下りますが、本能寺の変で信長が没したあとは北条氏直に下ります。

しかし天正壬申の乱では氏直が家康に付くことになります。昌幸もそれにしたがいますが、その後の和睦条件に不満をもった昌幸は越後国の上杉景勝(かげかつ)を頼り、家康と敵対することとなりました。その後は羽柴秀吉の臣下となり、関ヶ原の戦いでは西軍に加わります。昌幸は二男の幸村とともに上田城で徳川秀忠軍を足止めします。しかし敗北後は高野山へ謹慎に処され、1611(慶長16)年、幽閉先であった紀伊国九度山村において死去します。

真田昌幸と城

昌幸が築城した城として有名なのが長野県上田市にその跡を残す上田城です。

1583(天正11)年、昌幸は尼ヶ淵の断崖や沼、川などを利用した天然の要塞である上田城を築きました。また、城と同時に城下町を形成し、ここを居城とします。城の防御は土塁が中心でしたが、堅固な防御力をもつこの城が世間に知られたのは1585(天正13)年のことでした。まず、閏8月2日に沼田地方の領土問題で徳川家康が上田城に軍を送ります。

しかし、上田城でこれを迎え撃った昌幸は、上田城の総構えのなかに軍を引き寄せ、そこに一斉に攻撃をしかけ、さらに退路にも事前に準備をしておき攻撃をしかけました。また、1600(慶長5)年の9月6日には関ヶ原の戦いにおける東軍の主力と考えられていた徳川秀忠軍3万8,000を、上田城で足止めさせます。この際も城の周りの地形を利用した作戦を駆使し敵を翻弄しています。あらゆる状況を想定して周囲の環境を含めて築城された上田城は、昌幸にとってはひとつの武器でもあった訳です。