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加藤清正と城



加藤清正(かとうきよまさ)は、1562(永禄5)年6月24日~1611(慶長16)年6月24日に生きた戦国武将です。加藤清正の生涯と、彼の行なった築城について紹介します。

加藤清正の生涯

加藤清正の生涯

加藤清正は刀鍛冶の加藤清忠(きよただ)の息子として尾張国愛智郡中村に生まれます。豊臣秀吉の遠縁にあたる清正は秀吉にひきとられ、当時は子どもに恵まれなかった秀吉から特別にかわいがられたと言います。

1576(天正4)年、15歳で元服すると170石を与えられます。1581(天正9)年には鳥取城攻め、その翌年には備中高松城攻めと、秀吉の「中国攻め」に同行し軍功を上げます。

また、賤ヶ岳の戦いでは敵将を討ち「賤ヶ岳の七本槍」として数えられる程の活躍をし、3,000石の加増を受けます。さらに、「文禄・慶長の役」で知られる秀吉による朝鮮出兵にも参加し、朝鮮の民衆からは「鬼上官」と言うあだ名がつく程恐れられました。1598(慶長3)年に秀吉が死去すると、翌年には徳川家康の養女を妻とし家康との関係を構築していきます。関ヶ原の戦いでは九州から家康の東軍に協力をし、その功績が認められ肥後国の南半分を与えられ52万石の大名となります。その後は徳川家と豊臣家の争いを避けるために奔走しますがそれは叶わず、肥後への帰国途中に船内で発病し、1611(慶長16)に50歳で逝去します。

加藤清正と城

加藤清正は築城名人としても知られています。ここでは清正がかかわった城について詳しく見ていきます。

名護屋城

朝鮮出兵の前線基地として築かれた名護屋城は、急を要する築城のため数ヵ月で完成したにもかかわらず大規模な城でした。この築城にかかわった清正は築城名人としての名声を高めました。

熊本城

扇の勾配、武者返しとよばれる石垣づくりが特徴的な熊本城ですが、飯田覚兵衛(いいだかくべえ)、三宅角左衛門(みやけかくざえもん)といった石垣づくりの名人とともに、清正も自ら指示をしていたと言われています。このような石垣は、慶長の役のとき朝鮮での経験により清正が学んだものです。また、この経験は石垣だけではなく他の箇所にも特徴が見られ、清正が重視したのは実践が強く意識された城でした。例えば熊本城の天守は石垣よりも幅が大きくつくられていますが、これは「石落とし」といった軍事設備を多く設けるためのものでした。