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西南戦争とは



1607(慶長12)年に加藤清正によって築城された熊本城は、難攻不落の城として知られていますが、それがもっとも世間に証明されたのは築城から270年が経過した、1877(明治10)年のことでした。旧薩摩藩の藩士であった西郷隆盛率いる軍と、明治新政府軍が熊本城を中心地として争ったのが西南戦争です。この戦争のいきさつと経緯について詳しく見ていきます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

明治政府が誕生したあとも各地で武士たちの反乱が起こっていましたが、旧薩摩藩の藩士であった西郷隆盛は隠遁(いんとん)生活をしており、それらの反乱に勧誘されても反応することはありませんでした。しかし鹿児島においても西郷隆盛が創立した私学校の生徒が多くの事件を起こしており、それらの生徒に推されるかたちで、西郷隆盛が新政府軍との戦いのために立ち上がりました。

戦いの変遷

西郷隆盛は、鹿児島で挙兵し軍を率いて北上すると熊本へと至ります。熊本城には新政府により熊本鎮台が置かれ、そこには約4,000名の兵が守っていました。1877(明治10)年の2月19日には、熊本城天守や城下町を焼く原因不明の火事が起こります。そしてその直後から西郷軍は新政府軍の野営地に奇襲をかけ、数日間にわたる激戦が繰り広げられます。西郷軍の総勢はおよそ14,000名であったと言われています。

西郷軍は24日には作戦を変更し、鎮台の包囲を試みます。鎮台の司令長官・谷干城(たにたてき)は、この状況を事前に予測し弾薬や食料を用意してありました。しかも熊本城は巨大な城であるため、完全に包囲することのできなかった西郷軍は、近くを流れる坪井川と井芹(いせり)川の水を引き込み、城の周囲を守る兵を減らす作戦に切り替えました。これは多少の効果をもたらしたものの、新政府軍に大打撃を与えるには至りませんでした。4月14日には新政府軍側が背後から攻撃を仕掛け、西郷軍の包囲網を解くことに成功します。西郷軍は新政府軍に押され、南下を続け鹿児島へと戻っていくことになりました。

戦いのその後

南下に際し、西郷は宮崎の長井村において軍を解散します。そして残った者だけで鹿児島で最後の戦いを迎えようと決意していました。鹿児島の城山に陣を構えた西郷ですが、すぐさま新政府軍に取り囲まれ徹底的な集中砲火を浴びることとなり、ついに1877(明治10)年9月24日に別府晋介(べっぷしんすけ)に自らの首を落とさせました。日本最後の内戦と言われるこの戦争が完全に終結したと同時に、日本から武士と呼ばれる特権階級が消えたと言うこともできます。