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箱根戦争とは



薩摩藩・長州藩の藩士を中心につくられた明治政府は、旧幕府勢力の抵抗に遭い、これをきっかけに内戦が始まります。1868(慶応4/明治元)年より始まったこの一連の戦いは戊辰戦争と呼ばれ、鳥羽・伏見の戦いや東北戦争、函館戦争が有名です。箱根においても戦いは展開されていました。ここではその箱根戦争の経緯について詳しく見ていきます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜(よしのぶ)のもとには、遊撃隊と呼ばれる親衛隊が組織されていました。これら遊撃隊は1868(慶応4/明治元)年1月2日より開戦された戊辰戦争に加わりますが、鳥羽・伏見の戦いで敗れ、また主君の慶喜が水戸城へと退去すると、遊撃隊の多くは彰義隊(しょうぎたい)として上野に留まることとなりました。

一方、人見勝太郎(ひとみかつたろう)や伊庭八郎(いばはちろう)などの一部の隊士は、徹底抗戦を誓いその助力を上総国請西藩の藩主・林忠崇(はやしただたか)へ求めます。忠崇はこの要請に応え、新政府への恭順派と抗戦派に二分されていた請西藩を藩主自ら脱藩し、数十名の藩士を従えて遊撃隊の隊士とともに、新たな遊撃隊として新政府軍への抗戦へと立ち上がりました。

戦いの変遷

忠崇を中心とした遊撃隊は、勝山藩や館山藩などから兵力を吸収し、総勢200名までの兵力となりました。そして閏4月12日に真鶴に至ると、小田原藩へ新政府軍への抗戦を呼びかけます。しかし事前に新政府軍から「賊徒」(遊撃隊のこと)を討ち取るよう指令が下されていた小田原藩はこの訴えにあいまいな返答をするばかりでした。今に残されることわざに「小田原評定」というものがありますが、この意味は、長引くばかりでちっとも決着がつかない話し合いのことを意味します。このときの小田原藩の対応こそ、まさしく「小田原評定」の典型であったと言えますが、そもそもこのことわざは、1590(天正18)年に、当時の小田原城主であった北条氏直が、豊臣秀吉の軍勢に城を取り囲まれた際、和睦か抗戦かの評議が長引き、結局は開場することになったことに由来します。長い時を経て、同じ状況が箱根戦争でも生じることとなりました。

しびれを切らせた遊撃隊は5月19日に三島の関所を打ち破り、小田原藩と和議を成立させ、箱根の関所を占拠すると遂に小田原城へ入城します。この知らせに上野戦争ですでに彰義隊を破っていた新政府軍は怒り、小田原藩へと圧力をかけます。これにより小田原藩は遊撃隊へ1,500両の金や食糧、弾薬などを渡すことで小田原城から放逐しようとします。再び敵対関係となった遊撃隊と小田原藩士は、5月26日に湯本山崎において激突することとなりました。始めは戦いを優位に進めていた遊撃隊ですが、新政府軍の加勢により戦力は削られ湯本から箱根への撤退を余儀なくされ、ここに箱根戦争は終結します。

戦いのその後

生き残りの遊撃隊は撤退の結果、榎本武揚(えのもとたけあき)率いる艦隊や、奥羽列藩同盟などの戦力と合流しました。そして戊辰戦争の舞台は北へと移っていきます。