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会津戦争とは



福島県会津若松市にその跡を残す若松城は、会津若松城と呼ばれることもありますが、地元の人々からは鶴ヶ城(つるがじょう)の名で親しまれています。この若松城は、薩摩・長州藩を中核とした新政府軍と、旧幕府軍などの同盟軍による戊辰戦争の舞台のひとつとなった場所でもあります。戊辰戦争のなかでも屈指の籠城作戦として知られるこの戦争の詳細について、ここで見ていきます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

1868(慶応4/明治元)年、鳥羽・伏見の戦いにより始まった戊辰戦争において、会津藩は旧幕府軍の中心勢力と見なされていました。4月11日には江戸城を無血開城させ、その後も戦いを繰り返しながら北上した新政府軍は、白河城と二本松城を落とし会津へと向かいます。会津藩は居城である若松城を守るべく、国境付近で新政府軍を食い止めようとします。しかし、新政府軍は国境の母成峠(ぼなりとうげ)を8月21日に破ると、23日に若松城へと向かいます。

戦いの変遷

板垣退助の率いる新政府軍は、甲賀(こうが)口から城郭内へと侵入するものの、それ以上攻め入る用意がされておらず一旦退却します。これにより強行突破を断念し、作戦を包囲戦に変更します。これにより会津側も籠城作戦を取ることになりました。新政府軍の援軍が続々と駆け付けると、9月14日に総攻撃が仕掛けられますが会津藩からの必死の抵抗により城を落とすことはできません。

しかし、その後も完全包囲を図ります。外部からの支援を望むことができず、若松城内では次々と倒れる者が現れるようになりました。家老である西郷頼母(さいごうたのも)の邸宅では、多くの婦女子が籠城の足手まといにはならないようにと自害したと言います。新政府軍は追い打ちをかけるように、連夜若松城に砲撃を加えます。そして22日の早朝、若松城の大手門には「降参」と書かれた大きな白旗が下げられ、ここに戦いの幕は閉じることとなりました。

戦いのその後

若松城が開城することで戦いは終結しますが、若松城に程近い飯盛(いいもり)山においては戦いのさなかにさらなる悲劇が生まれていました。城外で戦っていた白虎隊の少年隊士20名は、避難していた飯盛山から、火の手があがる若松城下を見て、落城したのだと思い込み互いに刺し違えて自刃していたのです。飯盛山には今も白虎隊の墓が設けられています。一方、若松城を落とした新政府軍はさらに北上を続け、戊辰戦争最後の舞台となる函館へと向かっていきます。