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大坂の陣とは



関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康にとって、最後に残された課題は大坂城を居城とする豊臣秀頼(ひでより)の存在でした。家康にとって大坂の陣とは、様々な手段を講じ大坂方を決戦の場へ招き入れ、豊臣家を排除する天下取りのための総仕上げという意味合いのあるものでした。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

1600(慶長5)年9月27日、家康は大坂城において秀頼とその母淀殿(よどどの)に対面し、関ヶ原の合戦における勝利を報告します。しかし現状は家康が天下を獲ったに等しいことであり、1603(慶長8)年には征夷大将軍に任命されます。まだ豊臣家への忠誠の姿勢をもつ大名も多く残ることから、家康は豊臣家壊滅のチャンスを虎視眈々とうかがっていました。その引き金となったのが1614(慶長19)年の「方広寺鐘銘事件」です。方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、徳川家を冒涜し豊臣家の繁栄を願うものであるとし、方広寺の落慶法要を無期限で延期させたのです。秀頼の守役・片桐且元(かたぎりかつもと)が家康のもとへ釈明に遣わされますが、家康の策略にはまって秀頼と淀殿の不信を買い、家康と内通していると嫌疑をかけられてしまいます。秀頼は家康の提示した交渉にも応じず、且元は大阪城を追われ武装の上茨木城に籠城します。そしてこれが、家康が秀頼を討つ大義名分となりました。

戦いの変遷

大坂の陣は冬の陣と夏の陣からなります。

大坂冬の陣

1614(慶長19)年10月1日、家康は各大名に出陣を要請し、20万の大軍を率いて茶臼山に陣を置きます。11月19日に木津川口の砦をめぐり攻防が始まります。劣勢の豊臣軍では、真田幸村が真田丸という砦を築き奮戦します。一方徳川軍は大阪城を完全に包囲し、全軍で一斉砲撃をします。さらに本丸の北、備前島より大砲を打つことで敵の戦意を喪失させ、12月19日、家康側の提示する和議に合意しました。

大坂夏の陣

和議には大坂城を裸城にするという項目が含まれており、堀の埋め立てが進められますが、1615(慶長20)年3月には、豊臣方がその堀をまた掘り返しているという知らせがあり、再度戦いが始まります。堀が埋め立てられたため籠城作戦を取れなくなった豊臣軍は、大坂城に徳川軍を近づけないよう堀の外側に布陣して迎撃します。茶臼山に陣取った真田幸村の善戦もありましたが、5月7日に敢え無く戦死してしまいます。同日、大坂城では火災が発生します。火はなかなか消えず、遂に翌朝には秀頼と淀殿が自害することになりました。

戦いのその後

大坂夏の陣が終息すると、家康・秀忠親子は全国の大名を掌握することになります。閏6月には一国一城令、7月には武家諸法度といった法令を公布し、徳川支配による秩序確立を果たしていくこととなりました。