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城情報

上田合戦とは



長野県上田市にその跡を残す上田城は、1583(天正11)年に真田昌幸(さなだまさゆき)によって築城されました。この上田城を中心として、武田家が残した旧領をめぐり徳川・北条・真田の三家が争ったのが上田合戦です。真田が徳川の大軍を二度にわたり破ったとされるこの合戦はどのようにして起こり、どのような決着をみたのか、詳しく見ていきます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

1573(元亀4)年、武田信玄が没したときから武田家の衰亡は始まり、その後の長篠の合戦で織田信長に敗れたあと、1582(天正10)年には勝頼(かつより)が自刃し武田家は滅亡します。武田氏の領地を支配するのは信長であると思われましたが、その信長が本能寺の変により倒れると、その領地をめぐり徳川・北条・真田の三家それぞれの思惑により争いが顕在化していきます。徳川は甲斐から、北条は東信濃から、真田は北信濃からそれぞれ勢力を広げていき、沼田領をめぐって三家は緊張を高めていくことになります。

戦いの変遷

上田合戦の戦いの変遷について紹介します。

第一次上田合戦

武田家より沼田領を支配していた真田昌幸に対し、徳川家康はその土地を北条氏直(うじなお)に渡すよう勧告します。しかし昌幸がこれを拒否したため、家康は1585(天正13)年閏8月に、上田城へと兵を向かわせます。徳川軍は上田城の二の丸まで攻め入りますが、これを待ち構えていた真田軍から集中的に攻撃を受けます。徳川方は甚大な被害を受け、さらに家康の重臣が豊臣家に出奔すると言う事件が起き、事態の収拾のために兵を引き上げることによって一度目の戦いは収束します。7,000の徳川軍を2,000の兵で打ち破った真田の戦術は、徳川家を大いに警戒させることとなりました。

第二次上田合戦

続く戦いは1600(慶長5)年に起こりました。西軍として関ヶ原の戦いに参加した昌幸は、中山道を通り関ヶ原に向かう徳川軍の主力、徳川秀忠(ひでただ)軍を足止めすべく挑発を繰り返します。真田軍は秀忠軍を上田城におびきよせ、大手門まで引き寄せると集中砲火を浴びせました。これにより5日間の足止めを食った秀忠は、遂に関ヶ原に遅参することとなり、昌幸は関ヶ原に赴くことなく東軍に大打撃を与えることとなりました。

戦いのその後

昌幸は西軍として関ヶ原の戦いに加担しました。これには次男の幸村(ゆきむら)がしたがいましたが、嫡男の信之(のぶゆき)は東軍として戦うことになりました。関ヶ原の戦いのあとは、徳川によって上田城は破壊され、信之は松代城を与えられました。