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忍城の戦いとは



埼玉県行田市にその跡を残す忍(おし)城は、そばに流れる忍川と周りの沼地を利用し、天然の要塞に仕上げられた城です。この忍城を舞台として展開されたのが忍城の戦いです。天下を手中に収めつつあった豊臣秀吉の寵臣である石田三成(いしだみつなり)と、忍城の城主である成田氏長(なりたうじなが)によるこの戦のいきさつと背景について詳しく見ていきます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

1590(天正18)年、関白である豊臣秀吉率いる連合軍が小田原城を居城とする北条氏を討伐するために出陣すると、成田氏長と弟の泰親(やすちか)は、北条氏の援軍として数百騎を引きつれ小田原へ向かいます。城主のいなくなった忍城では、成田泰季(やすすえ)を城代とし、子の長親と共に留守を預かることとなりました。その忍城を落とすべく、秀吉の家臣である石田三成を大将とする大谷吉継(よしつぐ)、長束正家(なつかまさいえ)ら総勢2万3,000の軍が向かいました。

戦いの変遷

6月4日、三成は攻撃を開始します。しかし、川を利用した水堀や高い土塁で守られた忍城を落とすことは容易ではなく、三成は攻めあぐねます。その一方、忍城内では城代の泰季が急死し、代わって泰季の息子である長親(ながちか)が指揮を執ることになりました。三成は、丸墓山古墳に本陣を設け、城を水攻めにする計画を立てます。川をせき止めるため、全長およそ28キロメートルにも及ぶ「石田堤」とよばれる堤防を5日間で築き上げると、水攻めを開始します。

三成の思惑通り、周りに沼地の多い忍城に水攻めは効果的であり忍城の外曲輪は水没します。しかし肝心の本丸部分は水没することはなく、水の中に浮かんで見えるように見えたその姿は「浮き城」と後々まで言われるようになりました。一方の三成軍では堤防が決壊し被害を受けるなど、なかなか忍城を落とすことはできませんでした。そこで秀吉は三成へ援軍をさしむけます。そして7月5日に小田原城が落とされると、それに呼応するように同月14日、忍城も開城します。

戦いのその後

大軍に攻められても落ちることなく籠城戦に耐えた忍城は、難攻不落の城としての名誉を守りました。自軍だけでは城を落とすことのできなかった三成は「戦下手」というイメージを抱かれることになりますが、その後も着実に実績を重ね豊臣政権下で大きな権限を与えられることとなります。天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍として指揮をふるった三成は、敗走中に捕えられ、1600(慶長5)年、徳川家康の命により斬首の刑に処されます。