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小田原城攻めとは



賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで柴田勝家を討った羽柴秀吉は、大阪城を築くと1585(天正13)年に関白となり、姓を豊臣とあらためます。政治の実権を握った秀吉は、同年10月、九州地方に「惣無事令」を発布します。総無事令とは、大名同士による領土争いなどの私的な争いを禁止する法令のことです。刀狩令などと合わせて、私闘を禁止することを目的としたこれら一連の法令は、「豊臣平和令」とも呼ばれています。そしてこの法令を続いて関東・東北地方に向けて発令した際に、それに抵抗した北条氏との間に起こった一連の戦いが小田原城攻めです。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

関東・東北地方に総無事令が発布されたのは1587(天正15)年12月のことです。発令の主体はあくまで天皇でしたが、実質は関白である秀吉に服従を誓わせるためのもので、多くの大名が誓紙を納めこれにしたがいました。しかし、小田原城を居城とする北条氏政(うじまさ)、氏直(うじなお)はこれに従わず、ついに1589(天正17)年12月、秀吉は宣戦布告をすることとなります。

戦いの変遷

1590(天正18)年3月より始まる戦闘に際し、総勢21万にも及ぶ秀吉連合軍が形成され、そのなかには上杉景勝(かげかつ)、徳川家康、前田利家(としいえ)などの武将が参戦しました。一方、守る北条軍の数は8万人あまりでした。

数的には圧倒的に不利な状況ですが、小田原城は戦の名人と言われる上杉謙信や武田信玄でさえ落とすことのできなかった堅城です。籠城作戦を取る北条軍に対し、秀吉連合軍は山中城、玉縄城、江戸城などの支城を次々と攻め落としていきます。北方からも前田利家の軍勢が支城を攻撃し、相模湾をも封鎖させることで小田原城を完全に孤立させる包囲網を完成させていきました。

6月に入ると、小田原城に程近い西側の地に突如城が現れます。石垣山一夜城とも言われるこの城は、およそ80日で完成させられたとは思えない程本格的な城で、完成後それまで城を隠していた樹木を伐採したことで、突然城が現れたような効果をもたらしました。石垣山城に本陣を移した秀吉は、小田原城に見せ付けるように毎夜宴を催し、北条軍の士気を徐々に下げさせていきました。そして7月には氏直が投降し、小田原城は秀吉に明け渡されることとなりました。

戦いのその後

投降に際し、氏直は自らの命と引き換えに他の将兵の助命を秀吉に乞いますが、秀吉はそれを許さず氏政に切腹を命じます。惣無事令により北条征伐を果たすと同時に全国の大名を掌握するに至った秀吉は、ここに天下統一を果たすこととなりました。