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高松城の戦いとは



織田信長の命を受け、豊臣秀吉は中国地方を支配する毛利氏との戦いへ向かいます。「中国攻め」と言われるこの進軍で、秀吉は様々な戦略を用いて毛利方の城を落としていきます。高松城の戦いもその内のひとつでした。前年に鳥取城を落としている秀吉は、1582(天正10)年3月に備前沼城へと入城し、備中征伐が開始されます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

秀吉が備中高松に着いたのは1582(天正10)年4月のことです。特に備前と備中の境に建つ備中高松城は、信長の中国地方制圧にあたってどうしても落としておきたい城でした。秀吉は、まず高松城の城主である清水宗治(しみずむねはる)のもとへ遣いをやり、降伏を勧めます。しかし宗治はこれを拒否し、ここに高松城をめぐる攻防が始まることとなります。

戦いの変遷

秀吉は、まず高松城の周囲にある冠山(かんむりやま)城や宮地山(みやじやま)城を攻め落とします。そして城の周りに包囲網を完成させると、5月8日より水攻めの準備を開始しました。高松城は三方が沼沢地、一方を堀に囲まれた城で、城外へ通じる道にはすべて橋が架けられていました。有事の際にはこの橋を落としてしまえば、敵は攻め手を失うことになります。

秀吉は3万にも及ぶ大軍を率いていたと言われますが、力攻めを用いなかった理由はここにありました。水攻めを秀吉に進言したのは、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の名で知られる黒田孝高(くろだよしたか)だったと言われています。孝高が進言した水攻めの作戦とは、城の南方に大きな堤防をつくり城の側を流れる足守(あしもり)川をせき止めて、城を水浸しにすると言うものでした。秀吉軍は地元の農民たちにも賃金を払い、水攻めのための堤防を12日間で作り上げます。折しも梅雨時で、瞬く間に石垣、建物に浸水していきました。これにより城兵たちは戦意を失い、6月3日には秀吉の講和条件を受けることを決意し、翌4日に宗治は自害します。この際、宗治は湖のようになった城外に舟を浮かべ、秀吉の本陣近くまで漕いでいったと伝えられます。

戦いのその後

秀吉が快進撃を続けるなか、京都では大変な事態が起こっていました。明智光秀が主君である織田信長への謀反を起こし、6月2日本能寺において信長が死去するのです。知らせを受けて、秀吉は急きょ毛利氏との和平を取りまとめます。そして主君の敵となった光秀を討つために京都へ引き返します。それは中国攻めの終わりであるとともに、秀吉の天下統一の始まりとも言えます。同月13日に、摂津と山城の国境である山崎において秀吉は光秀を破りました。