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鳥取城の戦いとは



信長の命により中国地方の毛利氏を討つべく、西方へと進軍していったのが秀吉の「中国攻め」です。この中国攻めにおいて秀吉は様々な戦略で多くの城を落としていきます。吉川経家(きっかわつねいえ)を城主とする鳥取城の戦いもそのひとつです。この戦いの経緯と結果について詳しく見ていきます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

中国攻めにより西方へと進軍する豊臣軍が鳥取城下に到着したのは1580(天正8)年のことでした。鳥取城の城主である山名豊国(やまなとよくに)は、他の重臣が抗戦を主張したにもかかわらず、単身で豊臣軍の陣中へ赴き、そこで降伏を申し出ます。城主を失った鳥取城ですが、毛利氏の家臣である吉川経家を新たな城主として迎え入れます。一説にはこのとき経家は自分の首桶を用意して入城したとされており、秀吉の軍勢に対しての相当の覚悟が見て取れます。ここに経家と秀吉による鳥取城の戦いが始まります。

戦いの変遷

しかし、吉川経家は入城時から頭を悩ませることになりました。籠城のために必要な準備を始めようとしたところ、すでに城内には備蓄米が少なく、またそれまでに展開された戦いにより田畑も荒らされており、兵糧への準備が整う前に戦が始まってしまったのです。

この背景には秀吉の巧みな作戦がありました。秀吉は事前に周辺の地の米を通常の数倍の値で買い上げており、備蓄米を極力少なくしていたのです。したがって、この時点ですでに戦局は決していたという見方もあります。

1581(天正9)年7月12日に秀吉が鳥取に到着すると、総延長が12kmにも達する包囲網が構築されました。経家は周囲に兵糧の搬送を求めますが、すでに秀吉軍により補給路は断たれていました。「鳥取城の渇(かつ)え殺し」とも言われるこの兵糧攻めにより、城内の食料はすぐに底をつき、軍馬や草木の根に至るまでことごとく食べつくされると、8月には餓死者が出るようになりました。これを見た経家は降伏を決断します。秀吉が提示した開城の勧告には、経家の助命を記した一条がありましたが、経家はこれを拒否し、逆に兵や農民たちの命を助けることを条件に自決しました。

戦いのその後

秀吉軍に降伏を申し出たかつての鳥取城主・山名豊国は、秀吉に助命されると鳥取城攻めにも加わることになります。秀吉の死後は徳川家康へ近づき、関ヶ原の戦いでは東軍として軍功を上げます。

一方、中国攻めを続ける秀吉軍は、さらに西方へと進軍していくことになります。