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三木城の戦いとは



1492(明応元)年、別所長治(べっしょながはる)が播磨国に築城したのが三木城です。豊臣秀吉の「中国攻め」における随一の攻城戦は、播州第一の堅城とも呼ばれたこの三木城をめぐって行なわれました。この戦はどのような経緯で起こりどのような結果をもたらしたのか、詳しく見ていきます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

秀吉による中国地方の侵攻戦、いわゆる「中国攻め」は、織田信長が本願寺との戦いをくり広げる中、中国地方を支配する毛利氏を征するため、信長が秀吉に命じたものです。毛利氏の播磨侵攻が進む中、1577(天正5)年播磨に入った秀吉は周囲の城を次々と陥落し、短期間のうちに播磨を制しました。ところが1578(天正6)年、播磨の武将をまとめる別所長治が毛利方に寝返ります。秀吉は、長治が居城とする三木城の攻略を余儀なくされ三木城の戦いが始まりました。

戦いの変遷

別所長治は、初めは信長側についていましたが、毛利輝元の勧誘により反旗を翻しました。秀吉の中国攻めが進む中、三木城において長期戦への準備を整えた長治は、近隣の地侍や農民とともにこの城に立て籠もります。万全の準備を整えた三木城が容易に攻め落とせないと悟った秀吉は、まず三木城への補給路を断つことを考え、支城を次々と落としていきます。この間、毛利軍が東へ進軍していき、秀吉方の上月(こうづき)城は陥落することになります。しかし、次第に補給路を断つ秀吉の作戦にも効果が現れ始め、ついに三木城も周囲から孤立することになりました。三木城の戦いが始まった翌年の1579(天正7)年には、二千数百名の軍勢が突如秀吉軍の本陣に攻め入りますが、この作戦は失敗に終わります。

そして長治による籠城作戦が開始してからおよそ2年が経過すると、城内の兵糧はついに尽きることとなりました。軍馬や牛はもちろん、城内に生える草木の根にいたるまで食べつくされ、餓死者が現れるようになると、ついに城主の長治は自決し、「三木の干殺し」とも言われる長きにわたった三木城の戦いは終結することになります。三木城跡には「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」という長治の辞世の句が詠まれた碑が立っています。

戦いのその後

秀吉は、その後も吉川経家(きっかわつねいえ)の鳥取城 、清水宗治(しみずむねはる)の備中高松城といった西国の城を次々と攻略していきます。これらの戦いは、のちに「攻城戦の天才」と称される秀吉の名声を高めていくことになりました。