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桶狭間の戦いとは



愛知県豊明市には、今も桶狭間古戦場伝説地が残されています。この戦いでは戦場となった場所と両軍が進軍したルートに諸説があり、正確な位置などは定かになっていません。しかし今川義元(いまがわよしもと)の大勢に対し、織田信長がわずかな兵で応戦したこの桶狭間の戦いは、信長の武名を世間にとどろかせる発端ともなった歴史上重要な戦です。また清洲城での信長の「敦盛」の舞は、信長のエピソードとして今も有名なものです。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

戦国時代の武将である今川義元(いまがわよしもと)は、三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)の領主でしたが、さらに領地を広げるために、織田信長の領地である尾張への侵攻の機をうかがっていました。鳴海(なるみ)城、大高(おおたか)城を織田家から奪った義元に対し、信長も鷲津(わしづ)砦、丸根(まるね)砦を築くことで対抗します。このような動きを阻止すべく義元は1560(永禄3)年に国境の沓掛(くつかけ)城に入城します。義元の命により松平元康(のちの徳川家康)は丸根砦と鷲津砦を落とし、信長は義元への応戦を決意します。

戦いの変遷

信長は5月19日の明け方、出陣前の清洲城において「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」というフレーズで有名な幸若舞(こうわかまい)の「敦盛」を舞います。清洲城を出発した信長は、熱田神宮で戦勝を祈願します。信長はこの熱田において鷲津砦と丸根砦から煙が上がっているのを知ったと言います。昼になり信長軍は中島砦より出撃を開始します。3,000という少数の兵で進軍した信長軍は、相手に気づかれることなく桶狭間で休息中の今川義元本陣を急襲しました。この急襲に際し信長は「運は天にあり、敵が懸(か)からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」との訓示を兵に与えました。先遣隊が敵を引き付けて、残りの2,000の兵が本陣を攻めたのです。この際、空が曇り大風雨が起こります。敵の攻撃拠点を落とし安心していた義元ですが、豪雨が止んで視界が開けると信長軍が目前に迫っており、急いで陣を引き払い退却します。しかしこの退却の混乱の最中、義元は討ち取られてしまいます。

戦いのその後

義元の死後、今川軍では離反が起こります。今川家は三河と遠江を失い、最終的に武田信玄が駿河の領主となると遂に滅亡します。一方で信長はその後、かつて自分の砦を落とした元康と同盟を組み、西上していく足掛かりをつかんでいきます。