施設検索/ホームメイト・リサーチ

ご希望の日本の城情報を無料で検索できます。

ホームメイト日本の城リサーチ

城情報

千早・赤坂城の戦いとは



後醍醐天皇による鎌倉幕府へのクーデターに呼応した楠木正成(くすのきまさしげ)と、鎌倉幕府軍による二度の大きな戦いが、赤坂城の戦いと千早城の戦いです。100万人という巨大な勢力を持つ鎌倉幕府軍を、楠木正成はわずか1,000人の軍勢で打ち破ったと言われますが、このような勝利はどうやって起こったのか、詳しく見ていきます。

どのようにして起こったか

どのようにして起こったか

鎌倉時代末期、モンゴル帝国からの侵攻を受け弱体化した幕府では御家人の不満が充満し、さらに「悪党」と呼ばれる反幕府集団が各地で台頭し、幕府や領主に敵対していました。その中で、1318(文保2)年に即位したのち醍醐天皇は、さらなる政治の実権を握るため倒幕を企てますが、その計画は事前に幕府側に漏れてしまいます。しかし「悪党」の一人でもあり、後醍醐天皇のクーデターに呼応した楠木正成が挙兵し、ここに鎌倉幕府軍と楠木正成軍の戦いが始まります。

戦いの変遷

下赤坂城

楠木正成は下赤坂城を前衛の城、上赤坂城を本城、千早城を詰城としていました。まず正成は1331(元弘元/元徳3)年、500の兵と下赤坂城に立て籠もり、この城で幕府軍に対し正成お得意の「伏兵の策」とも呼ばれるゲリラ戦を展開します。これにより幕府軍は多くの兵を失い、力攻めを断念します。さらに正成は、急ごしらえの砦であった下赤坂城に火を放ち金剛山中へと潜っていきます。焼け跡にある20数名の身元不明の焼死体を、幕府軍は正成たちだと勘違いし関東へと戻っていきました。

上赤坂城

再度戦に加わった正成は、まず下赤坂城を奪還し、上赤坂城、千早城を利用しながら幕府軍を翻弄します。上赤坂城は東、西、北の三方が谷に囲まれており、ここに300の兵を配しました。1332(元弘2/正慶1)年に幕府軍は上赤坂城に攻め入り、翌年これを落城させます。そして、幕府軍は正成が立て籠もる千早城へと進軍します。

千早城

千早城は百万人といわれるの兵に取り囲まれたと言います。しかし「100日戦争」と呼ばれるこの戦で、正成は山城である千早城を天然の要塞とし、さらに奇計・奇策を用いて幕府軍を翻弄します。その策の中には甲冑を着せられた等身大の人形を並べ、夜明けとともにときの声を上げ、幕府軍がそれを討とうと集まったところに大量の大石を投げ落とすといった作戦もありました。幕府軍を千早城に釘づけにすることで、討幕の機運は一気に高まりを見せます。

戦いのその後

わずか千人の兵で幕府の大軍を退けた正成の奮闘は諸国へと伝わり、地方の豪族たちの蜂起を促しました。幕府内部からも造反者が出て、手薄になっていた鎌倉は新田義貞に攻め入られ、鎌倉幕府は滅亡しました。