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赤穂城の特徴



兵庫県赤穂市にその跡を残す赤穂城は、赤穂市のシンボルであり、また忠臣蔵で有名な赤穂浪士の故郷として、多くの歴史ファンが足を運ぶ城跡でもあります。1971(昭和46)年に国の史跡に指定されてからは、失われていたいくつかの建物が復元されています。ここでは赤穂城の歴史を振り返るとともに、その魅力について見ていきます。

赤穂城の歴史

赤穂城の歴史

赤穂城の正確な築年数については詳しく分かっていませんが、もとは戦国時代の陣屋だった建物でした。1614~15(慶長19~20)年にわたる大坂の陣のあと、赤穂藩が成立すると池田政綱(いけだまさつな)により小規模な城館として改築されました。そのあとを継いだ弟の輝興(てるおき)により、赤穂城はさらに改築されることになります。しかし輝興が発狂することにより池田家は改易され、池田家は二代で廃絶することになりました。

1645(正保2)年に、浅野長直(あさのながなお)が入封すると、その3年後に本格的な城郭が築かれることとなりました。しかし、三代の長矩(ながのり)が1701(元禄14)年に江戸城内で元禄赤穂事件のきっかけともなる吉良義央(きらよしひさ)への刃傷沙汰を起こしたことにより、浅野氏は改易され、赤穂城は龍野藩主の脇坂安照(わきさかやすてる)の預かりとなります。翌年には譜代大名であった永井直敬(なおひろ)が新しい城主となり、1706(宝永3)年には直敬の転封により、備中西江原藩の森長直(ながなお)が入封します。この後、明治に至るまで森氏の居城となりました。明治の廃城令により赤穂城は廃棄されますが、1950(昭和25)年、赤穂浪士が吉良邸に討ち入ってから250年にあたるこの年に、大手門や大手櫓などが復元されることとなりました。

赤穂城の特徴

浅野長直が赤穂城を本格的な城郭へと改築する際、その縄張りに携わったのが甲州流兵学者の近藤正純(まさずみ)です。また、この際に山鹿流軍学者の山鹿素行(やまがそこう)も招へいされ、赤穂城は砲撃戦など当時の最新鋭の戦が想定された城として整備されました。しかし赤穂城は浅野氏には広大すぎたため、財政難となりました。そのため天守は建造されませんでしたが、本丸を二の丸が取り囲み、その東方に三の丸が配置される、変形輪郭式の平城と言う珍しい城郭構造をしていたのが特徴です。また、赤穂藩の筆頭家老であり、のちの赤穂浪士のリーダーとなる大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が、浅野長矩が江戸城で刃傷沙汰を起こしたという知らせを受け取った城としても有名です。