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岩村城の特徴



岐阜県恵那市にその跡を残す岩村城は、中世に建てられた山城で、奈良県の高取城、岡山県の備中松山城とならび日本三大山城に数えられます。標高717メートルの山間に建てられていたこの城は「霧が城(きりがじょう)」ともよばれ、霧が立ちこまれるなかに建つ石垣の姿は「東洋のマチュ・ピチュ」とも称されます。そんな岩村城の歴史と魅力についてここで詳しく見ていきます。

岩村城の歴史

岩村城の歴史

岩村城の正確な築城年数について示されている歴史的な史料は残されていませんが、永正年間(1504~21)ころまでには美濃の遠山氏により築城されたと考えられています。さらに古い物では1185(文治元)年に源頼朝の家臣、加藤景廉(かとうかげかど)により建てられた物だとする場合もありますが、いずれにしても詳細は分かっていません。

遠山氏の居城であった岩村城ですが、戦国時代に入るとこの城が美濃、信濃、三河の国境近くに位置しているため武田信玄と織田信長により領有を争う争奪戦が始まります。遠山氏最後の領主となった景任(かげとう)は、信長の援助もあり信玄の侵攻を防ぎますが、1571(元亀2)年に病没してしまいます。そしてそのあとに城主となったのが、景任の未亡人である「おつやの方」でした。これは信長の意向によるものですが、嫡男である御坊丸(ごぼうまる)がまだ幼かったために、信長の叔母でもあったおつやの方が城主になったと言われています。この、歴史上非常に珍しい女性を城主に据えた城は、結局武田側の将である秋山虎繁(とらしげ)により攻め落とされます。おつやの方は虎繁の妻になると言う数奇な運命をたどりますが、それが信長の怒りを買い、1575(天正3)年岩村城を攻め落とし、虎繁とおつやの方を長良川の河川敷にて処刑します。江戸時代には長きにわたり松平氏の居城となりますが、明治の廃城令で解体されることになり、現在は石垣が残されるのみとなりました。城とは別に残された藩主邸も1881(明治14)年に火災により失われてしまいました。

岩村城の特徴

岩村城に天守はなく、本丸、二の丸が石垣で囲われた梯郭式山城です。山間部に建てられた城らしく、本丸の跡に残された六段の石垣に霧が立ち込める姿は幻想的で、多くの人々が足を運んでいます。石垣の他には藩主邸、また太鼓櫓と表御門が再建され、往時の姿をよみがえらせています。また、岩村町歴史資料館では、岩村城の歴史を振り返ることができると同時に、この城に残された遺品を間近でみることができます。