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多賀城の特徴



宮城県多賀城市に残される多賀城跡は、国の指定する特別史跡であり、また奈良県の平城宮跡、福岡県の大宰府跡と並び日本三代史跡に数えられている場所でもあります。見学が自由な多賀城正庁跡には多くの桜が植えられ、桜の名所として地元の人たちのみならず、多くの観光客が足を運ぶ場所でもあります。ここではそうした多賀城の歴史を見るとともに、その特徴を探ります。

多賀城の歴史

多賀城の歴史

多賀城は奈良時代に築かれた城柵であったことが明らかにされていますが、正確な築城年には諸説あり正確には分かっていません。多賀城は8世紀初頭に、大和朝廷が東北経営への拠点として築いた物で、陸奥国府と鎮守府が置かれていました。しかし東北征討のなか、780(宝亀11)年には蝦夷豪族によって焼失させられました。

「伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱」としても知られるこの事件は、朝廷側にいた呰麻呂が、同じ朝廷側の紀広純(きのひろずみ)と蝦夷豪族である道嶋大楯(みちしまのおおたて)を殺害し、そして朝廷による東北征討の拠点であった伊治城や多賀城を攻め落とした物です。呰麻呂が朝廷側に反旗を翻した理由は、自分の同族を攻めることを拒否してのことだったとされています。呰麻呂は多賀城を占拠することはせず、城から武器や兵糧を奪い取り、その後城に火を付けました。これ以降、蝦夷地には戦乱の時代が続くことになりますが、802(延暦21)年に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷地の平定を果たします。

その後も蝦夷豪族との緊張関係のなかで、多賀城は朝廷側の重要な軍事拠点としての役割を果たしていくことになります。平安時代初期になると、鎮守府は他へ移ることになりますが、国府としての機能は南北朝時代まで続くことになりました。また、のちの発掘調査で多賀城は、この他にも幾度となく戦いや災害に遭っていると言うことが分かっています。

多賀城の特徴

多賀城市の松島丘陵にかつて築かれていた多賀城は、およそ900メートル四方の、不均等なかたちをした城郭を形成していました。発掘調査により、周囲には築地塀や柵が張り巡らせられていたことが分かっています。その中央部には政治が執り行なわれた政庁が設けられており、現在は多賀政庁跡として復元されています。

また、南門近くに残された碑は762(天平宝字6)年、多賀城が修復された際に建てられたと言う古い歴史をもつ物です。この碑は国の重要文化財に指定されています。