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重文七城「松山城」の特徴



愛媛県松山市の中心部にある勝山の山頂に築かれた松山城は、大天守が「現存12天守」のひとつとして国の重要文化財に指定されており、また四国最大の城として多くの人々に親しまれています。三の丸を含め、城山公園が国の史跡に指定されており、また園内は桜の名所としても知られています。ここでは松山城の歴史を振り返るとともに、その魅力について触れていきます。

松山城の歴史

松山城の歴史

もとは松前城の城主であった加藤嘉明(かとうよしあき)が関ヶ原の戦いの功績により伊予国20万石に封じられた際に、松前城から城を移したことから、1602(慶長7)年に松山城の築城に着手しました。この地に松山と言う名が付いたのはこの翌年のことで、これによりこの城にも松山城と言う名前が付けられることになったようです。1627(寛永4)年には完成前に会津に移った嘉明の代わりに蒲生忠知(がもうただとも)が松山藩主となります。しかし、忠知が急死し蒲生家が断絶すると、その翌年、1635(寛永12)年に松平定行(まつだいらさだゆき)が松山藩主となり、ようやく松山城は完成することとなります。その後、明治まで松平家の居城として受け継がれるようになりました。

また、1784(天明4)年には落雷により三重天守が焼失してしまいます。天守の再建工事が開始したのは1820(文政3)年のことで、この工事は1854(安政元)年に完成しました。1870(明治3)年には火災により三の丸が焼失、また1872(明治5)年には同じく火災で二の丸も焼失します。

その後、1966(昭和41)年から木造で大規模な復元工事が開始され、在りし日の姿を今に残しています。

松山城の特徴

松山城の縄張りを担当した足立重信(あだちしげのぶ)は土木・治水技術に秀でた人物として知られています。勝山山頂を削りそこに本丸を築いた平山城である松山城は、そこから南西方向へ伸ばしたかたちで二の丸、三の丸が置かれる連郭式構造をなしています。

かつて五重六階であった大天守は、落雷による焼失後、新たに三重四階に作り直されました。この他に6棟の櫓、7棟の門、7棟の塀が国の重要文化財に指定されています。本丸から二の丸にかけては、松山城のシンボルのひとつである「登り石垣」で繋がっており、これは文禄・慶長の役の際に用いられた防衛技術でした。

また、二の丸には「まな板石」と呼ばれる大きな石が残されています。この石には、かつての城主の蒲生忠知が、跡継ぎができないことから領内の妊婦を逆恨みし、妊婦らをそこにくくり付けていた物であると言う逸話が残されています。