ご希望の日本の城情報を無料で検索できます。

施設検索/ホームメイト・リサーチTOP

城ワールド
日本の城
トップページへ戻る
トップページへ戻る

城情報

一国一城令のもたらしたもの



かつて力のある武士は館を所有しそこに住んでいましたが、時代が南北朝時代に入ると山城とよばれる山中の城を築くようになります。そのようにして築かれた城は平山城や平城として次第に平地へと移動し巨大な物となり、織田信長の築城した安土城に代表されるように立派な天守が備わった城へと変容していきます。戦国時代に入ると築城数はピークを迎えますが、その時代に終止符を打ったのが徳川幕府の公布した一国一城令でした。

一国一城令とは

一国一城令とは

大坂冬の陣、大坂夏の陣を経て1615(慶長20、元和元)年5月に大坂城は落城します。これにより豊臣家は滅びることになりました。すでに天下を統一し江戸幕府体制を敷いていた徳川家ではありますが、その基盤を盤石にするためにこの年の閏(うるう)六月に一国一城令を公布します。「一国一城の主」と言うと現在ではマイホームなどを所有しているといった肯定的な意味で用いられていますが、諸大名にとっては決して肯定的に受け止められるような布令ではありませんでした。なぜならひとつの国がひとつだけの城を持つことができるとすると言うことは、それまですでに築城されていた各大名の持ち城が、ひとつを除きすべて不要の物となるからです。ひとつの国を複数の大名で治めている伊予国(現在の愛媛県)のようなケースでは、大名家の数に応じて藤堂高吉の今治城、伊達秀宗の宇和島城、脇坂安治の大洲城、加藤嘉明の松山城といったように複数の城が残されることになりました。しかし毛利藩のように周防と長門の2国を領地としているといった場合には、国そのものを手離さなければならず、結局長門国の萩城だけが毛利藩に残されることになりました。

一国一城の目的

一国一城令により廃城となった城の多くは西日本の物でした。外様大名の多い西側の大名たちの戦力をできるだけ削り、徳川家による全国統治を盤石にすることが大きな目的だったからです。その目的をさらに推し進めることになったのが同年7月に公布した武家諸法度でした。そのなかの城に関する項目には、今後新たに築城することを禁止し、城の修復をする際には幕府に届け出るようにするといった内容が記されています。これにより増築や改築はもちろん修復さえも困難になりました。戦国時代から徳川体制にいたるまでの諸大名にとって、城がいかに戦における脅威となっていたか、この2つの布令によって知ることができます。そして徳川体制が盤石になるにつれ、軍事施設としての城の機能は徐々に失われていくことになりました。