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天守の歴史



私達が城を思い浮かべるとき、その最も象徴的なシンボルとなるのが天守です。現在いわゆる「現存天守」とよばれる物は日本に12建築のみですが、歴史を遡ってみると実に多くの天守が作られていたことが分かっています。時代の変遷によって、その特徴も役割も変わっていきます。ここではそんな天守の歴史について詳しく見ていきます。

天守の起源

天守の起源

天守は、古くは古代の城に設けられた楼観や戦国時代の城にある井楼(せいろう)にその起源を求めると言う説がありますが、天守の原型とされる建物を、16世紀中ごろに建てられた二重、三重の大櫓(おおやぐら)に見ることができます。

織田信長は岐阜城にある大型の櫓の内部を高級感のある書院造にしました。それが岐阜城天守と呼ばれる物です。さらに1579(天正7)年に信長が安土城を築城した際には、大規模な五重の天守を設け、これが私たちのイメージする大規模な天守の起源であるとされています。この巨大な天守は戦時下を想定した物であると同時に、自身が天下統一したと言う覇業を世に知らしめると言う目的がありました。また、信長はこの天守の中で生活をしたと言う記録が残されています。

天守の発展

信長が初めて建てた巨大な天守と言う特徴を推し進めたのが豊臣秀吉です。秀吉は1583(天正11)年に大坂城を、1592(文禄元)年に伏見城を築城しますが、いずれも巨大で絢爛豪華な天守が設けられました。特に大坂城の天守はその内部に金の茶室があったとされていますが、秀吉が天守に住むことはありませんでした。しかし客人を天守に迎え、見学させることを自慢としていました。その後、天守はどんどんと高層化していきます。徳川家康が1609(慶長14)年に築城した名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)は有名ですが、このようにより豪華で巨大な天守を諸大名は競うように設けます。しかし外観とは違い内観は質素な物で、象徴としての巨大な天守の機能性のみが残されていくことになりました。

天守の終焉

徳川体制が敷かれ、1615(慶長20)年に一国一城令が公布されると、一人の大名に付き一城しか所有することが許されなくなります。また、のちに公布された武家諸法度では、新たに城を築くことや城を増築することが禁止されるようになりました。これにより新しい天守が作られることはなくなり、増え続けていた天守の歴史は終焉を迎えることになります。また、火災などで消失した場合にも財政難で改築ができず、天守が失われたままの城が多くなっていきました。