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編集局が選ぶ スゴ城ランキング 第十回 圧巻の堀を持つ城ランキング

敵の進撃を食い止めるために築かれる堀。中心部に到達するまでの時間を稼ぐよう、様々な工夫がほどこされています。今回は、そんな圧巻の堀を持つ城を5つご紹介します。

1位 山中城(静岡県)

1位 山中城(静岡県)

後北条氏が残した美しい堀障子

山中城(やまなかじょう)は、小田原を中心に勢力を伸ばしていた後北条氏の三代目・北条氏康(ほうじょう うじやす)によって築城されました。築城時期は定かではありませんが、永禄年間(1558~1570)に石を一切使わず築かれたようです。箱根十城に数えられる山城ですが、山城ながらも曲輪が大きく空堀の幅が広いのが特長。しかも、その空堀の底には低くて細い土塁であぜ道を作り、独特の景観を誇っています。これは空堀に入った敵の動きを制限し、立ち往生している隙に城壁から矢玉で狙い撃ちするためのもの。

その姿が障子に似ていることから、「堀障子(ほりしょうじ)」と呼ばれるようになりました。 後北条氏の四代目・北条氏政が家督を継ぐと、豊臣秀吉との関係が悪化。西からの攻撃に備えて山中城を改修し、防備を固めていましたが、間に合うことなく豊臣軍を迎え撃つことに。1590(天正18)年、小田原征伐で豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)が率いる7万の軍が山中城を攻め、たった半日で落城していまいました。これによって後北条氏が滅亡し、同時に城も廃城へと追い込まれたのです。

しかし、見事な堀障子が現存していることから、1930(昭和5)年には国の史跡に指定されました。現在は三島市によって管理されています。雨での崩壊や風化を避けるため、盛り土の上に芝を張って保護。岱崎出丸(だいさきでまる)下の壮観な畝堀(うねぼり)も見応えがあります。

2位 小谷城(滋賀県)

2位 小谷城(滋賀県)

山を削り出して築いた大堀切

小谷城(おだにじょう)は、織田信長に攻められて浅井長政(あさい ながまさ)が壮絶な死を遂げたことで知られる、日本屈指の山城です。1523(大永3)年に、長政の祖父・亮政(すけまさ)によって築城されました。標高485メートルの急峻な山に築かれ、前面に虎御前山・山脇山・丁野山、西には高時川、背後には伊吹山系を控え、自然の要害に囲まれた堅固な城です。

また、美濃へ通じる中山道と越前へ通じる北陸道をつなぐ交通の要所であり、長政にとっては重要な拠点でした。1570(元亀元)年に、織田信長が浅井氏と同盟を結んでいる越前の朝倉氏を攻めると、長政は義理の兄である信長から離反。織田・徳川連合軍を朝倉軍と共に姉川で迎え撃ちました。浅井・朝倉軍は姉川の戦いで敗れたものの、その後「滋賀の陣」で優勢となって、一進一退の攻防に。1度は和解しましたが、1573(天正元)年に朝倉氏が攻められて朝倉義景(あさくら よしかげ)が自刃(じじん)すると、信長は小谷城を総攻撃。落城を悟った長政も自らの命を絶ちました。

小谷城は本丸や広間がある中心部、大嶽(おおづく)・山崎丸・月所丸(げっしょまる)・福寿丸(ふくじゅまる)などの独立した曲輪群、山麓の清水谷エリアの3つからなります。曲輪群は詰城(つめのしろ:最終防衛線)で、亮政の頃は大嶽が本丸でした。小谷山の山頂を削って構築しており、曲輪がひな壇状に並びます。一番高い位置に山王丸、その下に小丸、京極丸、中丸と続きます。もともと尾根だった部分を大きく削った大堀切で、中の丸、京極丸隔て、再び高所となった部分を本丸としました。落城時、長政は本丸、父の久政は山王丸の下の小丸にいましたが、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が京極丸を奇襲し、父と息子の居場所をつなぐルートを分断。この作戦が致命傷になったようです。

また、この大堀切の他、山王丸裏手の大石垣も必見。近江(現在の滋賀県)は石垣の発祥時期が早く、この小谷城も先駆的に導入した城でした。今も野面積(にづらづみ)の石垣が見られます。

3位 滝山城(東京都)

3位 滝山城(東京都)

複雑に絡み合うよう土塁と空堀

滝山城(たきやまじょう)は、後北条氏の北条氏照(ほうじょう うじてる)が大改修した山城です。後北条氏の築城術は中世城郭において最も優れており、滝山城はその代表作。中世城郭の最高峰としても賞賛されています。

1569(永禄12)年に武田信玄率いる2万の大軍に攻められるも、2,000の兵で撃退したという堅固な城でした。多摩川と秋川の合流地点にある丘陵上に築かれ、多摩川をそのまま堀として利用。天然の要害としては、日本最大級の規模を誇ります。長く広い土塁と空堀は驚く程迫力があり、さらにそれが複雑に絡み合う様子は他では見られません。二の丸の複雑な食い違い虎口(こぐち:出入り口)も巧妙。城壁を張り出して敵の動きを操作することで、側面からの攻撃を可能にしました。また、城内から見て左側を出すことで、土橋を渡ってくる敵に効率良く弓を射る工夫もなされています。現在も圧巻の土塁と空堀は残っており、木橋が再現されました。

当時の縄張りをイメージしながら見学すると、一層その素晴らしさに気付くはずです。1951(昭和26)年に国の史跡に指定され、「滝山自然公園」として桜の名所になっています。

4位 水戸城(茨城県)

鉄道から見上げる壮大な空堀

4位 水戸城(茨城県)

水戸城は、常陸国茨城郡(現在の茨城県水戸市)にあった城で、江戸時代には徳川御三家のひとつである、水戸徳川家の居城でした。関東ローム層に覆われたこの地は良質な石材を採集できないため、石垣を築くことが困難です。よって、関東の城は土塁で固めた土造りの城が多く、水戸城はその特長が分かりやすい城でした。城の北部を流れる那珂川(なかがわ)と、南部に広がっていた千波湖(せんばこ)を天然の堀とし、曲輪を一直線に並べています。

本丸の西側に二の丸、さらに西側に三の丸が配置され、それぞれ巨大な空堀で区分。本丸と二の丸、二の丸と三の丸の間の空堀には橋が架けられていましたが、現在は二の丸と三の丸の間は県道232号線が走り、本丸と二の丸の間にはJR水郡線が走っています。鉄道に乗ると、V字型の崖の底へと入っていきますが、これこそ水戸城本丸の空堀の跡。城ファンだけでなく、鉄道ファンの心もくすぐるはずです。

1625(寛永2)年に、徳川頼房(とくがわ よりふさ)が大々的に改修し、現在の姿に至ります。徳川御三家の城でしたが、尾張藩の名古屋城や紀州藩の和歌山城に比べるとかなり質素で、天守の建造は許可されませんでした。二の丸に御三階櫓を建てて代用天守としたようです。しかし、この御三階櫓には石垣がなく、地面に直接建てられており、一階の壁は海鼠壁(なまこかべ)。三階建てですが内部の構造は五階で、土蔵を思わせる奇妙な風貌だったようです。現在は二の丸・三の丸付近が整備され、土塁と空堀が現存。三の丸には九代藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)が建てた藩校「弘道館(こうどうかん)」が残っています。

また、巨大な薬医門も現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校に移築されました。弘道館は国の重要文化財、薬医門は茨城県の有形文化財に指定されています。

5位 河村城(神奈川県)

中世城郭ファンが「隠れた人気城郭」と評価

河村城(かわむらじょう)の築城は、平安時代末期頃。平将門(たいらのまさかど)を討伐したことで有名な藤原秀郷(ふじわら ひでさと)の流れをくむ、河村秀高(かわむら ひでたか)によって築城されたと伝えられています。南北朝時代の争乱で河村氏が敗れると、その後は関東管領の上杉憲実(うえすぎ のりざね)の支配下になり、戦国時代には後北条氏の支配を受けるようになりました。後北条氏は武田軍の攻撃に備えて強化しましたが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に落城し、あえなく廃城に。

しかし、昨今の発掘調査で後北条氏時代に築かれたと考えられる城郭の遺構が多数発見されました。曲輪の西側には、馬出曲輪から3本の堀切で区画された西曲輪と北曲輪があり、北側には後北条氏特有の畝堀(堀障子)で区切られた小曲輪と茶臼曲輪が存在しています。山中城程複雑ではありませんが、大規模な畝堀はかなり見応えあり。蔵曲輪と近藤曲輪も大堀切で区切られており、強固な防備体制だったことと想像できます。

その他にも、落城の際に姫が身を投じたという悲話が残る「お姫井戸」などがあり、ハイキングをかねて歴史探訪が可能。中世城郭ファンの間では「隠れた人気城郭」として知られているようです。

コラム

敵の進撃を食い止めるために築かれる堀。中心部に到達するまでの時間を稼ぐよう、様々な工夫がほどこされています。近世城郭のように石垣と水堀を築く技術がなかった中世には、最大の防御設備は空堀でした。敵の進路になる尾根を堀切で分断し、横の移動ができないように竪堀を設ければ、完全に敵の動きを封じ込めることができます。後北条氏が得意とした「畝堀」や「堀障子」は最も防御性が高く、這い上がろうとする敵を容易に攻撃することが可能です。

また、「堀底道(ほりぞこみち)」と呼ばれる堀底の通路に敵を集め、頭上から総攻撃する策も取られました。特徴的な空堀は全国に残っており、城ファンの想像力をかき立てますが、整備されていない環境も多々。軽装ではなく登山する装備で訪れることをおすすめします。蛇や蜂、蚊の襲撃に備えて夏の暑い日でも長袖・長ズボンで行動しましょう。水や非常食はもちろん、案内板があるとは限らないので、城の見取り図などを用意しておくと安心です。草や木に覆われて分かりにくいかもしれませんが、遺構を見つけたときの感動はひとしおです。