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編集局が選ぶ スゴ城ランキング 第九回 近世城郭へと生まれ変わった城ランキング

簡素な中世城郭から、織田、豊臣時代に培われた驚くべき技術によって近世城郭へと変貌を遂げた城は、この5ヵ所以外にもたくさんあります。これらの技術は、日本の建築文化を大きく前進させたと言っても過言ではありません。今回は、そんな近世城郭へと生まれ変わった城を5つご紹介します。

1位 岩村城(岐阜県)

1位 岩村城(岐阜県)

女城主の悲話と見事な石垣を持つ名山城

岩村城(いわむらじょう)は、1185(文治元)年に加藤景廉(かとう かげかど)によって築かれたと言われていますが、伝説に過ぎないとの説もあります。戦国時代には、その子孫である遠山氏の居城でしたが、織田信長や武田信玄の争奪戦に巻き込まれました。

1572(元亀3)年に一旦信長方につくも、たちまち信玄が奪還。このとき、前城主の遠山景任(とおやま かげとう)が病死したことから、未亡人で信長の叔母でもある、おつやの方(岩村殿)が城主となっていました。岩村殿は、和議のために武田軍の重臣・武田晴近(たけだ はるちか)の家臣・秋山信友(あきやま のぶとも)との婚姻を受入れましたが、1575(天正3)年に信長は嫡子である信忠に岩村城の攻略を指示。秋山信友も岩村殿も磔刑(たっけい:はりつけの刑)に処されたと言う、女城主の悲話を持つ城です。

岩村城は、中世城郭の形態が残された近世城郭の珍しい例。日本三大山城のひとつにも数えられています。最大の特徴は、累々と連なる本丸周辺の石垣でしょう。本丸の高い石垣を修築するために積まれ、全国唯一の景観を誇っています。また、ほとんどの曲輪が石垣で造られ、小さな曲輪が幾重にも連なり、厳重な構造で城を防御。現在見られる石垣のほとんどは、1601(慶長6)年に城主となった大給松平家乗(おおぎゅう まつだいら いえのり)が築き、江戸中期以降に積み直されたと考えられています。

岩村城を象徴する本丸北東に積まれた6段の石垣も、その頃積み直されたという説も有力で、昭和になって改修されたところも多いよう。麓から追手道(おってみち)を登ると追手門跡があり、この付近にも見事な石垣が連なります。そこには岩村城唯一の三重櫓が存在し、天守の役割を果たしていました。現在は、山麓の藩主邸跡に模擬太鼓櫓が建てられており、歴史資料館も見学できます。

2位 高取城(奈良県)

2位 高取城(奈良県)

比高390メートルを誇り面積も日本最大級

高取城(たかとりじょう)は、中世に大和(現在の奈良県)の豪族・越智(おち)氏によって築かれた典型的な山城で、日本三大山城に数えられます。1532(天文元)年の奈良の一向一揆に追われた興福寺の僧兵たちが助けを求めて大量に避難してきたことなどもあり、大規模な山城へと発展していきました。1580(天正8)年に大和国内は郡山城の一城と定められ、一旦廃城となりましたが、1584(天正12)年に郡山城の筒井順慶(つつい じゅんけい)が復興を開始。しかし、間もなく死去し、そのあとを継いだ定次(さだつぐ)は伊賀国(現在の三重県西部)に転封になりました。

近世城郭として本格的に再建したのは、豊臣秀吉の異父兄弟である豊臣(羽柴)秀長とその家臣の本多氏です。典型的な織豊系の山城で、その規模は日本最大級。標高583.9メートルの高取山山頂に築かれ、城下との比高は約390メートルもあり、他に類を見ません。城内の総面積は約1万平方キロメートル、城郭全体の面積は約6万平方キロメートル。

とても広い山地を郭内と城内に分けて防御するようにし、総石垣造りの中心部を完成度の高い縄張りで仕上げています。天守台の石垣は打込接(うちこみはぎ)で、隅部は算木積(さんぎづみ)で反りがありません。この上に三重の天守が建ち、「巽高取雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城」と詠われた程、見事な景観だったようです。また、かなり標高が高いため、修理には非常に苦労した様子。通常、修理には幕府への申請と許可が必要でしたが、あまりの頻度に3代将軍の徳川家光より「一々言上に及ばず」と申請不要の工事許可を受けました。

3位 津和野城(島根県)

3位 津和野城(島根県)

近世城郭を象徴する圧巻の総石垣造り

13世紀後半に、元寇(げんこう)に備えて吉見氏が築いて居城とした「津和野城(つわのじょう)」。関ヶ原の合戦以降、吉見氏が主家である毛利氏にしたがって津和野城を去ると、戦で功績を残した坂崎直盛(さかざき なおもり)が入城し、近世城郭に改修しました。ところが、直盛は徳川家お家騒動で渦中の人となります。

徳川家康の孫娘である千姫を娶る(めとる)ことを条件に、大坂夏の陣で千姫を大坂城から助け出しましたが、千姫は婚姻を拒否。その後、姫路国新田藩(現在の兵庫県姫路市)の本多家に輿入れが決まりました。それに腹を立てた直盛は、千姫を奪取する計画を立てましたが、未遂に終わります。しかし、この計画が幕府に露見し、直盛は切腹、坂崎氏は改易(かいえき:身分を平民に落としたり屋敷を没収したりする罰)に。世に言う千姫騒動で城主を失うと、代わって亀井氏が入城することになり、明治維新まで続きました。

津和野城の始祖である吉見氏は、まず中規模の城を築き、勢力拡大に合わせて南北約2キロメートルまでに拡張。そのあとに入った坂崎氏は大幅に規模を縮小して、近世城郭の象徴である総石垣造りにしました。山城部分の石垣は、現在もほぼ完璧に残存。太鼓丸、本丸の三十間台(さんじっけんだい)など見事な石垣が並ぶなか、人質櫓台の石垣は圧巻です。本丸の高さを補うために造られたもので、高さ約12メートルにも及び、山城としては全国でもトップレベル。

また、三の丸にはひな壇状になった石垣が残り、この上に櫓が建てられていました。麓には馬場先櫓と物見櫓が築かれ、日本で唯一現存する藩邸の櫓なので、1度は見ておきたい遺構です。

4位 備中松山城(岡山県)

切り立つ岩盤上に築いた迫力の石垣

4位 備中松山城(岡山県)

備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)は、備中国(現在の岡山県西部)で起こった戦国大名の三村氏・毛利氏・宇喜多氏の戦いの舞台になった中世の山城でした。関ヶ原の合戦後は、代官として赴任した小堀政次(こぼり まさつぐ)・政一(まさかず)親子が近世城郭に改修。続いて池田長幸(いけだ ながよし)、1642(寛永19)年には水野勝隆(みずの かつたか)が入り、現在の近世城郭が完成したのは水野勝宗(みずの かつむね)の時代です。

山城に天守が現存する唯一の城で、この天守も1681(天和元)年に勝宗が建てました。標高約480メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に位置し、戦国時代には標高が一番高い大松山を中心に要塞化され、現在も土段の曲輪が数多く残っています。近世に入ってからの松山城は、山の南側にある小松山を中心に広がり、高石垣で囲まれた曲輪がひな壇状に造成されて迫力満点。切り立った岩盤上に石垣を築いているのも珍しく、大手門跡の北側から見る高石垣は目を見張るものがあります。

中世山城の一部が高石垣と天守のある近世城郭に姿を変える一方、藩主の居館や政庁などは麓に築かれ、そのまわりに城下町が開けました。小堀政一は、京都の二条城や江戸城の庭園を手掛けるなど、作庭家としても有名な人物。城下町の頼久寺庭園は政一によって造られた蓬莱式枯山水庭園で、国の名勝にも指定されています。

5位 岡城(大分県)

断崖を縁取る長城ラインの高石垣

5位 岡城(大分県)

岡城(おかじょう)は、1185(文治元)年に源頼朝と仲違いしていた弟の義経を迎えるために、この地を治めていた緒方氏が築城したと伝えられていますが、中世には大友氏の一族である志賀氏の居城となっていました。1586(天正14)年の豊薩戦争では、島津の大軍が岡城を襲い、わずか18歳で城を守った滋賀親次(しが ちかつぐ)は豊臣秀吉に感謝状を与えられましたが、大友氏の当主である大友義統(おおとも よしむね)が改易されると、親次も城を去ることに。

続いて1594(文禄3)年に、播磨国(現在の兵庫県)から入城した中川秀成(なかがわ ひでしげ)は、岡城を近世城郭へと大改修しました。総石垣造りで織豊系の縄張り技術を駆使し、本丸・二の丸・三の丸、東の曲輪と下原門、大手門、近戸門などを整備。三の丸、近戸門から続く長城ラインの高石垣は極めて壮大で、切込接によって美しく積み上げられています。また、本丸には天守の代わりに三重四階の三階櫓があり、江戸中期に一度再建されました。山城は移動が不便なため、江戸時代に入ると麓に居館や政庁を造るのが一般的です。

しかし、岡城では本丸内に御殿を建て、城主は麓に下りることなく幕末を迎えました。作曲家の滝廉太郎(たき れんたろう)は、幼少期を岡城のある竹田市で過ごしたため、後世に残る名曲「荒城の月」は岡城をイメージしたと伝えられています。

コラム

簡素な中世城郭から、織田、豊臣時代に培われた驚くべき技術によって近世城郭へと変貌を遂げた城は、この5ヵ所以外にもたくさんあります。これらの技術は、日本の建築文化を大きく前進させたと言っても過言ではありません。今のようにクレーンや強固な足場がない状況で、緻密に積まれた高石垣などを見ると、先人の偉業に驚くばかり。ところどころに中世の足跡が見られるのも、技術の移りかわりを学べる良い機会になります。

岩村城や津和野城のように悲哀に満ちたエピソードを持つ城があるように、城はドラマティックなストーリーを秘めているケースが多々。事前に歴史的背景をチェックし、当時に思いを馳せながら見学すると、また違った見方ができることでしょう。

また、天災や火災、明治の廃城令で石垣以外の建造物はほとんど残っていない中、津和野城の藩邸の櫓、備中松山城の天守は現存しており、歴史的価値が非常に高く必見。天守などがない場合でも、明治の廃城令前に撮影した写真を見られることもあります。照らし合わせながら見学するとグンとイメージが膨らむはずです。