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編集局が選ぶ スゴ城ランキング 第八回 美しい石垣を持つ城ランキング

中世城郭では土塁であったのが、近世城郭では石垣になり、さらに水堀を伴って防御性を高めました。石の加工方法や積み方で時代がある程度分かるので、改修跡から城主が代わったことなど、時代背景を読み取ることができます。今回は、そんな美しい石垣を持つ城を5つご紹介します。

1位 萩城(山口県)

萩城

屈辱を受けながらも造り上げた日本屈指の石垣

「萩城(はぎじょう)」は、1604(慶長9)年に毛利輝元(もうり てるもと)が指月山(しづきさん)の山麓に築城したことから、別名「指月城(しづきじょう)」とも呼ばれています。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで西軍の大将になった毛利輝元は、敗北してから家康に本領は温存すると言う約束を取り付け、本国に帰りました。

しかし、家康はその約束を反故(ほご:なかったことにすること)にし、毛利家を取り潰そうと策略を練ります。関ヶ原の戦いで毛利家の家臣でありながら、徳川家康が率いる東軍の勝利を確信し、家康と内通していた吉川広家(きっかわ ひろいえ)に周防(現在の山口県東南部)・長門(現在の山口県西部)の2国を与えようとしたのです。

しかし元来、毛利家の取り潰しを避けるために動いていた広家は、毛利家存続のために奔走し、何とか輝元が周防・長門の領主となれるように取り付けました。周防・長門に入った輝元は、新しい領地に居城を建設するため、山口・萩・防府の3ヵ所を候補としましたが、家康は萩を指定。いまだ毛利家に警戒心を抱いていた家康が、交通の便が悪く、陸の孤島のようなこの地に止まらせようと考えたのでしょう。

天守は望楼型の五重天守で、輝元が居城として本国に築いた広島城よりもひと回り小さく、デザインは松江城とほぼ同じ。明治に入って天守閣や櫓などはすべて解体されてしまいましたが、現在も石垣と堀の一部が昔の姿をとどめています。見どころは何と言っても天守台の石垣です。勾配は緩やかながら、美しい反り返りはまるで芸術品。

天守台の脇には、日本屈指の雁木と言う本丸の内堀に面した石段があり、その規模も見応えがあります。その上、二の丸の東面には日本一の横矢邪(よこやひずみ)の石垣があり、城郭ファンならずとも必見です。

中城城

2位 中城城(沖縄県)

ペリー提督も賞賛した青い海を臨む美しき城壁

「中城城(なかぐすくじょう)」は、14世紀後半に先中城按司(さきなかぐすく あじ)が築城し、その後、琉球王国時代の築城家として知られる護佐丸(ごさまる)が改築しました。当時、勝連半島で勢力を伸ばしていた阿麻和利(あまわり)に対する備えとして、読谷(よみたん)の座喜味城(ざきみじょう)から移築したと言われています。

標高160メートルもある丘陵地を活かし、美しい曲線を描いた城壁は琉球石灰岩の切り石を使い、一の郭と二の郭は「布積(ぬのづみ)」、三の郭と西北側の郭は「相方積(あいかたづみ)」、他にも「野面積(のづらづみ)」など、様々なバリエーションで積まれています。特に二の郭の曲線はハッとする程の美しさ。1853(嘉永6)年にこの地を訪れたペリー提督も、「要塞の資材は石灰岩で、その石造建築は賞賛すべきものであった。漆喰(しっくい)もセメントも何も用いていないが、耐久性を損なうようにも思わなかった。」と「日本遠征記」で石垣の素晴らしさを賞賛しています。

彼が「エジプト式」と例えて賞賛したアーチ状の石門も必見。琉球王国内の城群では最も状態が良く残り、石垣の上に立つと東シナ海や中城湾などが見渡せます。当時の琉球王国は、沖縄本島南部の佐敷から興った第一尚氏によって国家が統一されていく途中で、最終段階ではこの城が大きな役割を果たしたようです。2000(平成12)年に中城城跡を含む「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。

伊賀上野城

3位 伊賀上野城(三重県)

未完成ながらも藤堂高虎らしい圧巻の高石垣

1585(天正13)年に大和郡山城(やまとこおりやまじょう)から転封された筒井定次(つつい さだつぐ)によって築城された「上野城(うえのじょう)」。1608(慶長13)年に除封され、代わって入城した藤堂高虎(とうどう たかとら)が城主となり、大規模な改修をしました。藤堂高虎と言えば築城の名手。豊臣氏が大坂城(大阪城)を攻める拠点として、高石垣や天守台などを新たに増築したようです。筒井時代の本丸は城代屋敷とし、城の南側に家臣の屋敷や城下町を設けました。

石垣は藤堂高虎ならではの高石垣で圧巻の佇まいです。本丸西側にある高さ約30メートルの高石垣は水堀を伴い、西側から見上げると迫力満点。隅は算木積(さんぎづみ)、それ以外は打込接(うちこみはぎ)で積み上げられ、反りがなく一直線です。徳川家による大坂城(大阪城)再建までは、日本一の高さを誇っていました。

しかし、完成前に豊臣家が滅亡してしまったため、築城はその時点でストップ。西側は完成していますが、東側は筒井時代のままで、石垣も堀も一巡していません。未完成な城はたくさんありますが、ここまで縄張りの未完成さが目立つ城は珍しいと言われています。

4位 甲府城(山梨県)

堅固な造りで家康の動きに睨みをきかす

甲府城

甲斐国は武田家が滅亡したあと、織田信長の支配を経て、本能寺の変後は徳川家康が支配していました。家康はこの地に新城を求めて「甲府城(こうふじょう)」の礎(いしずえ)を築きましたが、豊臣秀吉が天下を取ると所有権は秀吉に。秀吉は家康を江戸に封じ込めるため、右腕である浅野長政(あさの ながまさ)に命じて大坂城(大阪城)のような新型城郭を築かせたのです。

関ヶ原の合戦で家康が天下を取ると、九男の義直(よしなお)、第二代将軍となった秀忠(ひでただ)の次男である忠長(ただなが)など、将軍家一族が城主を務める特別な城となりました。浅野氏時代の甲府城は関東の動きに睨みをきかす造りだったため、東国では珍しい総石垣造りで非常に堅固です。現存する石垣のうち、半分は浅野時代の野面積(のづらづみ)の乱積(らんづみ)で、勾配は非常に緩やか。関ヶ原の合戦以前の石垣がここまで大量に見られる場所は他にありません。特に天守台は必見で、驚く程歪んだ台形が当時未発達だった石垣の技術を分かりやすく表しています。

天守台中央の大きな穴蔵も、この時代特有のもの。現在は石垣の修復と復元整備に伴って調査が進み、稲荷櫓や山手御門などを木造で推定復元しています。発掘調査で稲荷曲輪の石垣の一部に、築城期の石垣が埋殺(資材を撤去せずそのまま埋めて始末すること)していることが判明しました。そのまま展示してありますので、ぜひご覧下さい。

5位 金山城(群馬県)

関東に残された本格的な石垣と神秘の池

金山城

関東地方には、本格的な石垣を用いた中世城郭はないとされていた中、「金山城(かなやまじょう)」はその常識を覆しました。岩松氏が礎を築き、1584(天正12)年に北条氏がこの城を接収し、以降は北条氏の番城として機能。石垣は北条氏が手掛けた可能性が高いと思われています。

標高239メートルの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる屋根上を造り上げて曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。石垣は近世城郭のような高さはなく、最高でも3メートル程ですが、何段にも積み重ねた手法は他に類を見ません。上杉謙信の最後の関東出陣でも攻め落とされることなく、堅城ぶりを世に知らしめました。

この城のシンボルとも言える日の池、月の池は、貯水目的でなく、儀式に使われたと考えられ、神秘性を放っています。現在は虎口も復元され、特徴的な低い石垣と石敷が見学可能。山頂近くの南曲輪休憩施設付近からは富士山や東京スカイツリーが望めます。領国を見下ろす戦国武将の気分を味わってみてはいかがでしょう?

コラム

中世城郭と近世城郭の違いをはっきりと表しているのは、やはり石垣でしょう。中世城郭では土塁であったのが、近世城郭では石垣になり、さらに水堀を伴って防御性を高めました。ただし、ある時期から突然発展した訳でなく、織田信長や豊臣秀吉の登場以降に少しずつ進歩。石の加工方法や積み方で時代がある程度分かるので、改修跡から城主が代わったことなど、時代背景を読み取ることができます。

また、より防御性を高めるために、塁線を曲げる「横矢掛かり」という技術が発達。文字通り横から矢を射ることができるようにした、死角を減らすための仕掛けです。大坂城(大阪府)の石垣には、この横矢掛かりを多数入れたことから、その様子を屏風に見立て「屏風折り」と呼ばれています。折りの一つひとつに櫓が設置され、敵を襲撃できるようになっていることに加え、30メートルを誇る石垣が敵の侵入を阻み、最強の城と言っても過言ではありません。

他にも江戸城(東京都)や熊本城(熊本県)、名古屋城(愛知県)など、圧巻の高石垣は押さえておきたいところ。天守などは焼失・倒壊してしまっても、石垣は現存している城は多いので、石垣に目を向けながら見学すると、楽しみが倍増するはずです。