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編集局が選ぶ スゴ城ランキング 第七回 水堀に囲まれた水城ランキング

敵や動物の侵入を防ぐため、近世の平城の多くが広い水堀に囲まれています。その中でも海岸・河川・湖沼に隣接して築城され、その水源を堀に利用している「水城」。今回は、そんな水城を5つご紹介します。

今治城

1位今治城(愛媛県)

江戸城にも応用されている新しい築城方法

築城の名手と言われた藤堂高虎(とうどう たかとら)が築いた名城のひとつです。彼の築城に対する考え方は「四角い縄張、直角の城壁、広い水堀、高い石垣、総多門櫓と枡形門で守りを固める」と言うものでした。

1602(慶長7)年に完成した今治城(いまばりじょう)は、まさにその考え方を形にした最初の城。のちに名古屋城、徳川大阪城(大坂城)などの徳川幕府の城に適用される、日本の城の規格ができるきっかけになりました。

今治城は、砂が蓄積してできた弱い地盤の上に築かれているため、別名「吹揚(ふきあげ)城」とも呼ばれます。石垣は天然石を粗く打ち砕いて加工し、石同士のすき間を減らした「打込接(うちこみはぎ)」という技術が用いられ、直線的で反りがありません。堀には海水が引き込まれ、二重櫓で囲まれた日本一厳重な舟入りがありました。軍港を備えた完璧な海城だったようです。

天守は屋根飾りの破風(はふ)がない完全な層塔型。層塔型としては日本初でしたが、今治城築城から10年経たないうちに、京都の丹波亀山城へ移築され、明治まで残ったという説が濃厚です。現在見られるのは1980(昭和55)年に再建された天守ですが、明確な資料があまり残されていないため、当時の姿とは異なると考えられています。

中津城

2位中津城(大分県)

黒田孝高が「天守に銭を積んで蓄えた」名水城

1588(天正16)年に黒田孝高(くろだ よしたか)が築城したのち、細川氏、小笠原氏、奥平氏へと次々に城主が変わった中津城(なかつじょう)。

周防灘(すおうなだ)に面した中津川の河口にあり、縄張りが扇形をしていることから「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていました。本丸周辺に石垣、水堀、水門石垣、西門石垣などが点在して今も残り、中津市内には大手門石垣なども残存。 堀には海水が引き込まれていることから、日本三大水城のひとつに数えられています。実際に天守が建てられたかは不明ですが、黒田孝高の手紙に「天守に銭を積んで蓄えた」という一文があり、人柄と天守の存在をうかがわせます。現在、本丸には五重の模擬天守と二重の模擬隅櫓(すみやぐら)が建てられていて、堂々とした外観を誇っています。

本丸北側の石垣は黒田時代の石垣で、現存する近世城郭の石垣としては九州最古。その石垣から細川時代に継いだ境目が見られ、その部分ははっきりと確認できる算木積(さんぎづみ)です。姫路城の三国堀石垣と通ずるものがあると言えるでしょう。近年、本丸南側の内堀と石垣を修復・復元しましたが、ここでも黒田と細川時代の石垣改修の跡を見ることができます。

諏訪高島城

3位諏訪高島城(山梨県)

日本三大湖城のひとつ「諏訪の浮城」

もともと諏訪市北側の茶臼山にあった旧高島城を居城(領主が日常住んでいる城)としていた日根野高吉(ひねの たかよし)が、諏訪湖畔の高島村に新しい城として1592(文禄元)年~1598(慶長3)年の間に築いたと言われています。

高吉は、織田信長や豊臣秀吉のもとで築城に携わっていたことから、この城も織豊(しょくほう)系城郭として築城されました。諏訪湖に突き出した水城で、浮いているように見えたことから「諏訪の浮城」とも呼ばれ、日本三大湖城のひとつに数えられています。

江戸時代初めに周囲が干拓された干拓地で地盤が弱いため、木材を筏(いかだ)状に組んで石を積むなど、当時では最先端の技術が用いられました。しかし、それでも石垣が痛みやすく、何度も補修が行なわれたようです。7年という短期間で築城したことから、地元では過酷な労役に苦しみ、石材を確保するために墓石や石仏まで用いられたという言い伝えが残っています。

天守は独立式望楼型三重五階構造。各所に華頭窓(かとうまど)が用いられ、屋根は瓦葺ではなく、ヒノキの薄い板を葺いた柿葺でした。本丸、天守、櫓、門、塀が復元された現在は、高島公園として地元で親しまれ、内部は資料館となっています。

4位津城(三重県)

名古屋城のモデルとなった高虎式城郭

津城

「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ尾張名古屋は城で持つ」と伊勢音頭で唄われるように、津は伊勢国の中心地として栄えていました。城としての歴史は、織田信長の伊勢侵攻により、弟の信包(のぶかね)が入ったことから始まります。

その後、豊臣秀吉時代は富田一白(とみた いっぱく)、徳川家康時代には今治藩から築城の名手・藤堂高虎(とうどう たかとら)が入城し、大改修を経て近世城郭の形をととのえ、明治維新まで藤堂氏の居城となりました。

建物は現存していませんが、「高虎式」を象徴する高い切込接(きりこみはぎ)の石垣と、全長100メートルにも及ぶ広い水堀、そして多聞櫓(たもんやぐら)が真四角の本丸を防備。天守は関ヶ原の戦いで消失したのち、富田時代に五重天守を再現したと言われていますが、残っている天守台から推測すると、三重四階程度だったと考えられます。

その天守も1662(寛文2)年に火災で焼失。以降は幕府への配慮から再建されませんでした。現在は、丑寅櫓(うしとらやぐら)が復元されていますが、場所も外観も当時とは異なる様子。本丸跡には日本庭園が整備され、「お城公園」として開放されています。今も残る高虎流ならではの広い水堀と高石垣は一見の価値ありです。

5位小諸城(長野県)

三原駅のコンコースから望む天守台

小諸城

1596(慶長元)年に毛利元就(もうり もとなり)の三男・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)が隠居所として築城した三原城(みはらじょう)。1601(慶長6)年から入城した福島正則(ふくしま まさのり)が増築しました。

瀬戸内海の三原湾に注ぐ沼田川の河口そばにある小島をつないで築かれた海城で、最盛期は海に面した台形の島に天守台付きの本丸、その西に内堀を挟んで二の丸と西築出(つくで)、本丸の東側の内堀を挟んで三の丸と東築出が築かれました。

実際には天守は築かれず、3基の二重櫓が上げられたそうです。本丸の東南部には幅20メートル以上もある東舟入があり、満潮時にはその姿が海に浮かんで見えたことから「浮城」とも呼ばれていました。3万石の居城にはふさわしくない壮麗さを持つため、「三原には過ぎたるものが三つある」のひとつに挙げられた程。

現在では、本丸の跡に山陽新幹線と山陽本線の三原駅が建っており、城跡は寸断されています。天守台とそれを巡る堀、駅南側の船入櫓跡の石垣、本丸門跡が残り、天守台跡へはJR三原駅のコンコース内からのみ入ることができます。駅内で城見物ができるのは全国でも珍しいパターン。ぜひ訪れてみて下さい。

コラム

平地に築かれた平城の防御性を高めるため、近世の平城の多くが広い水堀に囲まれています。その中であえて「水城」と呼ばれる城は、海や湖、河川など、自然の水源を堀に利用しているものをさします。

取り分けインパクトが強いのが、海水を堀に引き入れているケース。「海城」とも呼ばれるそれらの城は、今治城の他に香川の高松城、三重では伊勢桑名城や鳥羽城なども有名です。大量輸送の主役だった水運によって食料や資材の運搬、人の移動などが可能で、籠城したときにも敵に水上の兵力がないと包囲できないため、戦では非常に有利でした。

また、河川を利用した城として中津城の他に有名なのが、岩手の盛岡城や茨城の古河城などがあります。いずれも出入り可能な舟入を設けていたようです。1644(正保元)年に江戸幕府が諸大名に命じて作成させた城の絵図「正保城絵図(しょうほうしろえず)」には、多くの絵図に舟入が描かれていることから、幕府にとって舟入は城の重要な機能のひとつと考えられていたことが分かります。