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編集局が選ぶ スゴ城ランキング 第六回 これお城だったの!?一風変わった名城ランキング

天守閣がそびえる城ばかりが城ではありません。星型をしている城、一貫して天守を持たない城、また昔話の伝承が残る城等、今回は5つの個性ある名城をご案内します。

五稜郭

1位五稜郭(北海道)

五稜郭が星形をしている理由とは!?

「五稜郭(ごりょうかく)って城だったの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、五稜郭は立派な日本の城のひとつ。
江戸時代末期に日本で造られた星形の城郭は、総じて「五稜郭」と呼ばれており、北海道以外では、長野県の龍岡城(たつおかじょう)のみが遺構として残っています。

1853(嘉永6)年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航。翌年に江戸幕府とアメリカ合衆国との間で日米和親条約が締結され、下田と箱館(現在の函館)の二港が開港されることになりました。
そのため、箱館に来航する外国船に対応できる防衛施設が必要となり、13代将軍徳川家定(とくがわ いえさだ)の命によって、1857(安政4)年より五稜郭建造の工事が開始されたのです。
設計には、洋式軍学者の武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)が担当することになりました。
武田は、箱館に来航したフランス軍艦の軍人から、ヨーロッパの築城術を学びました。
当時、ヨーロッパでは、大砲など大型火器を使った戦闘が中心だったため、その防衛に応じた土木技術を持っており、それを伝える書籍から、武田は設計図や図面を写し取り、西洋式築城術を学んだのです。そして、日本初となるフランス方式の星型要塞を築き上げました。

城郭本体から長く突き出した稜堡(りょうほ)と呼ばれる角を持つ稜堡方式は、敵に対して死角を持たないのが最大の特徴で、シールドの役割と防御道の役割を併せ持つ五つの角より、十字砲火など多方向からの射撃を浴びせかけることが可能でした。
五稜郭の築城工事は約7年の歳月を要し、1864(元治元)年にようやく完成。
しかし、そのわずか3年後、15代将軍徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)によって大政奉還が行なわれ、徳川幕府は消滅してしまいます。
これにより、五稜郭も明治新政府に引き渡されることになりましたが、1868(明治元)年、榎本武揚(えのもと たけあき)率いる旧幕府軍が北海道へ移動し、五稜郭を拠点としました。
もちろん新政府軍が黙ってこれを放置するはずもなく、翌年の春には戊辰戦争最後の決戦となる箱館戦争が起こります。
圧倒的な装備の不利もあり、旧幕府軍は新政府軍に降伏。約7ヵ月に及んだ箱館戦争は終結し、五稜郭は完全に新政府の支配下に入りました。

1964(昭和39)年には、築城100年を記念して高さ60メートルの五稜郭タワーが建造され、2006(平成18)年には、高さ107メートルの新タワーに立て替えられました。
その五稜郭タワーの展望台からは、特別史跡五稜郭の星形がくっきりと見えるだけでなく、箱館山や津軽海峡、横津連峰の山並みなどが一望できます。また、五稜郭の歴史が学べる展示スペース「五稜郭歴史回廊」や強化ガラスの床から下がのぞき見える「シースルーフロア」なども楽しめます。

首里城
(C)沖縄観光コンベンションビューロー

2位首里城(沖縄県)

中国の築城文化を色濃く伝える城

琉球王国は1429年から1879年までの約450年間、沖縄本島を中心に周辺の離島を統治しました。
中国大陸を始め、日本、東南アジア諸国と積極的な交易を行ない、交易で流入する南方文化の影響を受け、独自の文化を築き上げました。
その王城である首里城(しゅりじょう)は、中国の城の影響を大きく受けており、門を始めとする建築物は漆で朱塗りが施されているのが特徴です。
また、屋根瓦なども赤瓦と呼ばれる琉球瓦が使われ、国王の象徴である龍が各部の装飾に用いられています。

城は内郭と外郭に分けられますが、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成したと言われています。戦乱のない琉球王朝時代に再建されたためか、戦いに対する備えがない構造になっており、主に国王一家が居住する王宮として、また王国の行政機関本部や王国祭祀を運営する宗教上の聖地、芸術文化の発信地としての役割を持っていたことから、当時の琉球王国にとっては戦いより政治や外交、文化が重んじられていたことが分かります。

残念ながら1945(昭和20)年、第二次世界大戦の最終決戦沖縄戦で焼失してしまいましたが、1992(平成4)年、沖縄の本土復帰20周年を記念して、正殿を中心とする建築物群や城郭が琉球王国時代の姿に復元され、首里城公園として整備されました。
その中のひとつに、西暦2000年を記念した二千円紙幣の絵柄にもなった有名な「守礼門」があります。中国の門型建築である牌楼形式(ぱいろうけいしき)で建立されており、門の上に掲げられている扁額(へんがく)には「守禮之邦(礼節を重んずる国)」とあることから、「守礼門」と呼ばれるようになりました。

園内には、その他にも国家の聖地であった園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)や円覚寺跡などの文化財が点在しています。その文化的、歴史的な価値の高さから、2000(平成12)年、『琉球王国のグスクおよび関連遺産群』として、日本で11番目の世界遺産として登録されました。

※世界遺産への登録は、復元された城ではなく、「首里城跡」となります。

武田氏館
写真提供:やまなし観光推進機構

3位武田氏館(山梨県)

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」

武田氏館(たけだうじやかた)は、1519(永正16)年に武田信虎(たけだ のぶとら)によって築かれました。躑躅ヶ崎(つつじがさき)と呼ばれる尾根の麓にあることから、「躑躅ヶ崎館」との別名もあります。
外堀、内堀、空堀に囲まれた中世式武家館として知られる武田氏館は、信虎、信玄(しんげん)、勝頼(かつより)と武田氏三代の本拠地として使用されました。
内郭は石積みで仕切られており、東曲輪では政務を、中曲輪は当主の生活空間として、西曲輪は家族の住居にあてられました。
館の周りには、政治的・経済的機能を集中させたるため、城下町や新たな寺社、市場などが整備され、城下町の北側には家臣団の屋敷群、南側には商職人町が配置され、東西の出入り口には三日市場や八日市場などの市場が開設されました。武田氏の勢力が拡大するにしたがって、施設が増設されていきましたが、信虎が築城した当初は、現在の武田神社が鎮座している主郭のみであったと考えられています。

このように、城と呼ぶにはあまりにも小さな館でしたが、信玄が立派な天守を持たなかった理由については、信玄の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」から読み取ることができます。
この書には、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」という信玄の言葉が記されており、これは、「信頼関係で結ばれた人の集まりは、城や石垣、堀にもなる。また、人に情をかければ味方になるが、逆に不信感を与えれば敵となる」という意味です。
つまり、信玄は、勝敗の決め手は「堅固な城」ではなく、家臣や領民と信頼関係で結ばれた「人の力」が重要であり、逆に城を堅固にしても人心が離反すれば無意味であると考えていたことが窺い知れます。

武田氏が滅亡すると、織田(おだ)氏、豊臣(とよとみ)氏、徳川(とくがわ)氏がそれぞれに甲斐国統治の拠点として再整備し、徳川氏時代には天守も築かれました。しかし1590(天正18)年、平岩親吉(ひらいわ ちかよし)によって甲府城が築城されると、武田氏館は政治拠点としての役割を終えることとなりました。

現在の武田氏館跡には、信玄を祭神とする「武田神社」が建てられており、遺構として土塁、堀、石垣、虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されています。武田神社の近くには、当時から変わることのない二つの井戸も現存しています。

4位鬼ノ城(岡山県)

鬼退治神話が残る、歴史的にも謎の多い山城

鬼ノ城

すり鉢を伏せたような鬼城山(きのじょうざん)の八合目から九合目あたりに、土塁や高い石垣で城壁を張り巡らせた古代山城「鬼ノ城(きのじょう)」があります。
鬼ノ城の成り立ちは定かではありませんが、663(天智2)年、白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れた大和朝廷が、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築城した12の古代山城に準じる防衛施設のひとつではないかと言う説が有力です。

鬼ノ城と言う名前は、この地に伝わる「温羅(うら)伝承」に由来があると言われています。
渡来した百済の王子の温羅が、備中国(現在の岡山県西部)の新山に居を構え、悪行三昧の日々を送っていました。人々は温羅を恐れ、彼の居城を「鬼ノ城」と呼びました。最終的に、温羅は崇神(すじん)天皇に派遣された吉備津彦命(きびつひこのみこと)に退治されました。
この伝承が鬼退治をする『桃太郎』の題材になったと言われています。

城壁の構造は、一段一列に並べて置いた列石の上に土を少しずつ入れてつき固めた版築土塁。要所には、堅固な高い石垣を配置してあります。周囲2.8キロメートルの城壁で囲まれた城内は、4つの谷を含んでいるものの比較的平坦で、約30ヘクタールの広さの中に、食料貯蔵庫や管理棟と推測される礎石建物が7棟、烽火場(のろしば)と思われる焚き火跡、水汲み場、鍛冶場、作業のための土取り跡などが残されています。谷部には排水のための水門が6ヵ所あり、出入り口となる城門も4ヵ所あります。

1986(昭和61)年に国の史跡に指定され、2001(平成13)年より総社市教育委員会が復元史跡整備を行なっています。四季折々の花や多彩な生態系を構成する湿地や豊かな自然環境を楽しめるウォーキングコースになっており、遺構と合わせて楽しむことができます。

5位小諸城(長野県)

城下町よりも低い城!? 低地を味方に付けた城

小諸城
提供:信州・長野県観光協会

小諸城(こもろじょう)は、『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する小室光兼(こむろ みつかね)によって建てられた館がもとになっており、当時は「酔月城(すいげつじょう)」、「鍋蓋城(なべぶたじょう)」等と呼ばれていました。
鍋蓋と言うのは、城が低地に縄張(曲輪や堀、門、虎口の配置等)が施され、城下町から城内が丸見えだったために付けられた名称です。また、一般的に戦国時代の城は、周囲よりも高い場所に築かれる山城や平山城と言った城が主流でしたが、周囲よりも低いところに建てられたことから「穴城(あなじょう)」とも呼ばれています。
小諸城の南側は火山灰でできた崩れやすい千曲川の断崖絶壁、東西も浅間山の地形が作り出した深い谷間を空堀として利用し、高地ではなく、低地にある天然の地形を味方に付けた珍しい城です。

1487(長享元)年には大井光忠(おおい みつただ)によって大改修され、城郭として整備されますが、戦国時代になり、武田信玄の軍師である山本勘助(やまもと かんすけ)が新たに独自の縄張を整備したのが、小諸城の原型になったと言われています。
武田氏が滅んだあとは、織田家家臣の一人である滝川一益(たきがわ いちます)や北条氏が所領したのち、徳川氏に引き渡されます。
現在の小諸城のもとになる近代的な城郭へ整備したのは、小田原征伐での功労が認められた豊臣最古参の家臣である仙石秀久(せんごく ひでひさ)で、石垣や三層の天守を建てました。
そして次々と城主を変えながら、明治を迎えました。

明治になると廃城が決定し、1880(明治13)年には民間に払い下げられ、城内は懐古園として整備されました。園内には動物園を始め「児童遊園地」、「小山敬三美術館」、「郷土博物館」、「藤村記念館」、「懐古神社」、「徴古館」があり、隣接する施設としては「渥美清こもろ寅さん会館」、「鹿嶋神社」、「小諸義塾記念館」等があります。
また、旧城郭の馬場跡を中心にソメイヨシノが多数植樹されており、桜の開花時期には多くの花見客でおおいに賑わいます。

小諸城の遺構としては、石垣と懐古園の入り口の三の門、仙石久秀の築いた大手門が400年前の姿のままで残されています。また、移築された建物の中では、足柄門が光岳寺の山門として、黒門が正眼院の山門として市内に移設され、本丸御殿の書院と言われるものが東御市の民家に残っています。

コラム

典型的な日本の城と言うと天守閣がそびえたつ城を思い浮かべます。
例えば、姫路城(兵庫県)、彦根城(滋賀県)、犬山城(愛知県)など、現存12天守のひとつに数えられ、国宝にも指定されている城です。
しかし、全国には天守を持たない城も数多く存在します。 それは築城者の居城空間に対するこだわり、経済的負担、時の権力者への遠慮など、様々な理由があったようです。
今回ご紹介した城は、西洋技術を取り入れた「五稜郭」、南方文化の影響を受けた「首里城」、また戦略的な立地を考えて建てられた「小諸城」などをご紹介してみました。
他にも、天空の城と呼ばれる標高353.7メートルに築かれた「竹田城(兵庫県)」、幾度も重要な歴史の舞台として使用された「二条城(京都)」なども、その土地ならではの趣があります。
もし、旅先で見学する機会がありましたら、その歴史や文化に触れてみるのも一興ではないでしょうか。 小さな島国である日本ですが、城だけで多種多様な文化を感じられることは、とても興味いことと言えます。