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編集局が選ぶ スゴ城ランキング 第五回 珍しい遺構が残る人気の名城ランキング

現在、日本各地に残っている城には、復元・改修が施されたり、資料館や公園が併設されたりするなど観光施設として整備されているところが数多くあります。
歴史ファンならずとも、その土地ならではの観光スポットとして、国内外から多くの観光客が訪れています。今回は、そんな人気の名城、かつ歴史的に珍しい遺構が見られる城をご紹介します。

名古屋城

1位名古屋城(愛知県)

徳川御三家筆頭・尾張徳川家の格式を
感じさせる名建築と大天守!

「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と、有名な伊勢音頭でも歌われている名古屋城(なごやじょう)。

天守は、高さこそ江戸城や大阪城にかないませんが、総床面積では4,424.5平方メートルと史上最大の広さを誇っています。
また、本丸は近世武家文化の頂点をなすと言われ、国宝である京都二条城と並ぶ武家書院造りの名建築と評されています。
名古屋城がこれ程の規模と格式を備えることができたのは、徳川御三家筆頭である尾張徳川家の居城であったからにほかなりません。

徳川幕府以前、この地には那古野城(なごやじょう)と言う今川氏親(いまがわ もとちか)が築いた城がありました。
これを織田信長の父である信秀(のぶひで)が今川氏から奪い取ったので、信長は那古野城で生まれたという説もあります。
その後、信長の天下統一の過程で那古野城は一時廃城になりますが、関ヶ原の戦いで勝利した家康が西軍との最終戦に備え、尾張防衛線の要の城として改めてこの地に名古屋城を築きました。

そして、明治維新の名古屋城破却や1891(明治24)年に起きた濃尾大震災の被害も乗り越えましたが、1945(昭和20)年の名古屋空襲で天守と本丸御殿を焼失、東南・西北・西南隅櫓(すみやぐら)と表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門の三門、そして本丸御殿障壁がかろうじて戦火を免れ、現在は国の重要文化財に指定されています。

1959(昭和34)年には、名古屋の人々の強い思いにあと押しされ天守が再建されました。
地階から七階の展望室まで、すべての階で工夫を凝らした展示物が見学できます。
また、2009(平成21)年からは本丸御殿の復元も開始され、2013(平成25)年5月末には入口にあたる本丸御殿玄関、謁見の間である表書院などが公開されました。

※「尾張名古屋は城でもつ」とは、「尾張の名古屋は新しい城ができたから栄えるであろう」と言う意味。

彦根城

2位彦根城(滋賀県)

現存天守を残す彦根城には、他では見られない遺構が満載!

彦根城(ひこねじょう)の見どころは、なんと言っても築城当事の面影を残す天守(現存12天守のひとつ)です。
また、国宝指定を受けている4城(松本城・犬山城・姫路城)のうちのひとつにも数えられています。
さらに彦根城には、日本国内の3城だけにある「登り石垣」や、彦根城限定の「城内にある馬屋」、橋を中心に左右対称に櫓を配した「天秤櫓(てんびんやぐら)」など珍しい遺構も多く、貴重な史跡に触れることができます。

そもそも彦根という土地は、中山道と北陸道が合流する交通の要所です。
そのため古来より、この地では何度も天下分け目の合戦が繰り広げられてきました。
このとき、徳川家康も彦根を重要視し、関ヶ原の戦いで功績のあった徳川四天王の一人、井伊直正(いい なおまさ)にこの地を与え、その息子の直継(なおつぐ)が城を築く際には7ヵ国12大名に手伝いを命じて天下普請として彦根城を完成させました。

以来、彦根城は譜代大名筆頭井伊家の居城として栄えましたが、明治維新の廃城令に伴い、その姿を失いかけます。
しかし、幸いにも北陸巡幸帰りの明治天皇が彦根城の雄姿を目にされ、保存を命じたことで、解体を免れたと言われていますが、随行した大隈重信の奉上によると言う説、天皇の従妹にあたる住持攝専(せっせん)夫人・かね子の奉上によると言う説もあります。

そのあとも補修工事を重ねながら、彦根城は2007(平成19)年、築城400年を迎えました。
彦根城は周辺の施設も充実しており、井伊家の下屋敷だった数寄屋造りの「楽々園(らくらくえん)」や中国・唐の玄宗皇帝が愛した離宮庭園を参考に造園したと言われる「玄宮園(げんきゅうえん)」、他にも明治時代に取り壊され表御殿を復元した「彦根城博物館」など見どころ満載です。
歴史ある本町エリアは、新旧が融合した城下町へと生まれ変わり、伝統的な町並みの中、食事や買い物が楽しめる「夢京橋キャッスルロード」があり、観光スポットとして人気の場所となっています。

松山城

3位松山城(愛媛県)

歴史上、最後となる桃山文化様式の城

松山城(まつやまじょう)は、「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」で名を挙げた七本槍の一人である加藤嘉明(かとう よしあき)が築いた四国最大の城です。

注目すべきは、やはり大天守です。
通常、城の天守は有事の籠城目的で造られており、生活空間としては使用されませんが、この城の天守は、すべての階に天井板を張り、畳や襖を入れられるよう設え、床の間まで造られています。
このように快適な居住性を追求した意図については、いまだ分かっておらず研究が進んでいます。その他、彦根城でも採用されている「登り石垣」が松山城にもあります。

嘉明は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、水軍の将として参戦し、朝鮮半島の倭城造りを見てきました。そこに採用された石垣普請の技術を取り入れたと言われています。
この「登り石垣」は、松山城と彦根城、洲本城(すもとじょう)の3ヵ所でしか見ることができず、当時の東洋三国の築城交流がうかがえる重要な遺構となっています。

城主は、明治維新まで徳川の家系である松平家が務めました。
現存する12天守の中で唯一、徳川家の直系である「親藩」が居城したことから、天守の紋章には徳川家の葵の御紋が刻まれています。
親藩の居城であったことは、のちのち松山城に大きな影響を及ぼします。
江戸期、幕府は武家諸法度を設け、天守の新築はもとより増改築にも厳しく取り締まりましたが、松山城に関しては、火災による焼失などにより、天守の再建・改築が許されました。

1853(嘉永6)年、黒船が来航した翌年、最後の城郭建築と言われる「三重三階地下一階の層塔型」の大天守が建築されました。
天守の原型と言われる「望楼型二重櫓(ぼうろうがた にじゅうやぐら)の野原櫓(のはらやぐら)」が日本で唯一現存しており、幕末に造られた層塔型の完成形である大天守と見比べると、築城技術の変化の過程が分かります。

松山城が建つ市街地の近くには、日本三古湯のひとつと言われる「道後温泉」があります。夏目漱石の「坊っちゃん」にも登場したことから、「坊っちゃん記念碑」、「道後公園」などもあり、市内電車には、機関車仕様の「坊っちゃん列車」が走っているなど、観光スポットも充実しています。

4位弘前城(青森県)

四季折々の風景を描き出す最北端の現存天守

弘前城

弘前城(ひろさきじょう)は、日本で最も北に現存する12天守のひとつで、司馬遼太郎の著書『街道をゆく 北のまほろば』で日本七名城のひとつに挙げられています。
天守以外にも三つの櫓五つの城門が現存し、堀や石垣、土塁など城郭の全容がほぼ廃城時のまま残されていることから、いずれも国の重要文化財に指定されています。

弘前城は、津軽を統一した津軽為信(つがる ためのぶ)の思いを受けて、二代藩主となる信枚(のぶひら)が1611(慶長16)年に完成させました。
以後、弘前藩津軽氏4万7千石の居城としてこの土地を見守ってきました。

最初に造られた五重天守は、東北地方では若松城に次ぐ規模だったようですが、落雷による火事で焼失。
武家諸法度による規制などで再建できず200年近く天守のない時代が続きました。
1810(文化7)年になって、津軽海峡を航行するロシア船を警戒する名目で幕府から許可を得て三重三階層塔式の櫓を建築したのが現在の天守です。

現在は、「弘前城史料館」として津軽藩政時代の歴史資料が展示されています。
また、弘前城は桜の名所としても有名で、春にはソメイヨシノや八重桜など約2,600本の桜が咲き誇り、訪れる人を華やかに迎えてくれます。
樹齢130年を超える日本最古のソメイヨシノは、1882(明治15)年、荒廃する城内を見かねた旧藩士の菊池楯衛(きくち たてえ)が植えました。
一度は枯れそうになりましたが、青森ならではの匠の技、リンゴの剪定技術を応用して復活させたと言われています。
秋には北奥羽随一と言われる豪華な菊人形、約1,000本の楓の紅葉が楽しめ、冬には「みちのく五大雪まつり」のひとつに数えられる雪燈籠まつりも開催されます。
他にも、三の丸の一部を都市緑化植物園として整備した「弘前城植物園」や、津軽藩政時代を中心とした歴史資料、美術工芸資料を展示している「弘前市立博物館」も見どころです。

5位丸亀城(香川県)

日本一高い石垣と瀬戸内海を望む絶景

丸亀城
写真提供 延岡観光協会

丸亀城(まるがめじょう)は、天守は小規模ながらも、「日本一高い石垣」に建つことで知られている城です。

山麓から山頂まで4重に造られ、総高60メートルの石垣は日本一の高さになります。
扇の勾配」と呼ばれる曲線美もあいまって壮観の一言。
この高さだけあって、天守までは傾斜のきつい坂が続きますが、それを乗り越えて辿り着いた最上階からの眺望は抜群です。
瀬戸内海と讃岐平野が広がる絶景を楽しむことができます。

丸亀城は、1602(慶長7)年に生駒親正(いこま まさちか)・一正(かずまさ)父子によって築城されました。
江戸期に建てられた御三階櫓は全国でも珍しい木造天守です。
現存する三重天守の中では最も小規模ですが、唐破風千鳥破風を施して白い漆喰を塗るなど細部にもこだわり、小さいながらも威厳と風格を備えています。
また、現存する石垣の大半は、1643(寛永20)年から城主になった山崎家治(やまざき いえはる)が着手し、30年以上をかけて行なわれた大改修の際に造られた物とされています。
これは、江戸幕府が丸亀城を瀬戸内海の海上交通拠点に定めたこと、また、丸亀沖にある島に多く潜んでいた隠れキリシタンの蜂起を見張るためでした。
そのため、幕府からは参勤交代を免除され、大坂城修復で残った石を使っても良いという許可や改修の費用が出たと言われています。

現在、城跡の全域は亀山公園となっていて、大手一の門の東側には、出陣の際に武者を一堂に集めるために造られた広い桝形があります。
また、二の丸広場の真ん中には日本一深い井戸があり、あまりにも深さがあるため、城の抜け穴に使用されていたとも言われています。

丸亀城内には、うちわ作りの実演販売を行なっている「うちわ工房」や、1688(貞享5)年に京極高豊(きょうごく たかとよ)によって築庭された「中津万象園」などもあり、白砂青松の松原から続く1,500本の矮松(にじりまつ)は見事です。

コラム

城は、今も昔も地元に生きる人々のシンボルです。
城を訪ねることで、温故知新、ご当地の魅力に出会えます。
今回は、その城でしか見られない遺構がたくさん残されている城を紹介しましたが、どの城にも独自の個性が存在します。城の立地選択、建築手法、石垣の積み方、様々な仕掛けなどにはそれぞれ意味があり、明確な目的を持って造られました。
そんな時代背景を探索してみると、城巡りのおもしろさがより一層深まるのではないでしょうか。