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編集局が選ぶ スゴ城ランキング 第四回 アイデア結集!驚きの仕掛けを持つ城ランキング

戦国時代、城は支配者の権威の象徴であるだけでなく、戦の拠点としても重要な役割を持っていました。敵方の兵に攻め込まれないように、また、味方の兵が攻め入ってくる敵を攻撃しやすいように、城にはあらゆる知略を凝らした「仕掛け」が施されていたのです。
今回は、そんな巧妙な工夫が見どころの城をご紹介します。

姫路城

1位姫路城(兵庫県)

美しい城を守る巨大迷路!?
姫路城の複雑な構造

「姫路城」と言えばまず思い浮かべるのが、空に向かってそびえ立つ真っ白な天守の姿ではないでしょうか。
ユネスコの世界遺産にも指定された美しい城ですが、実は、天守までの道すじは非常に複雑で、迷路のような仕組みになっています。進入してきた敵をあちこちへ分散させて袋小路で挟み撃ちにするためと言われています。
この縄張りは、「らせん式縄張り」と呼ばれる物で、江戸城と姫路城にしかない構造です。
外堀、中堀、内堀が螺旋状につながり、左回りにぐるぐると回って進まなければ天守へたどり着けません。外堀と中堀の間、つまり最初の防衛線となるエリアには、足軽や同心など身分の低い武士を住まわせ、いざというときには彼らが立てこもれるように、寺社も集められていました。
さらに、城下の道は広くなったり狭くなったり、行き止まりと見せかけて分かれ道になっていたり…とまさに仕掛けだらけ。
天守にはなかなか近づけない造りになっていたのです。

また、壁には火縄銃対策として、山土に豆砂利を加えて、もち米のとぎ汁やおかゆで固めた「油壁(あぶらかべ)」を使い、防火・耐火に優れた「白漆喰塗籠造(しろしっくいぬりごめづくり)」を採用することにより、コンクリート並みの強度があると言われています。
他にも、有事には埋めてしまえる「埋門(うずみもん)」や、敵から身を隠しながら鉄砲や矢を放つ小さな窓「狭間(さま)」が603ヵ所、鉄砲を撃つための丸や三角の狭間に至っては、なんと2,522ヵ所もあるなど、独特な防御の工夫を現在でも体験できます。

一方、姫路城には味方を守る「仕掛け」もあります。堀の水面下には隠された堤があり、渡って外へ出られる仕掛けになっていました。
また、大きな門から隠すように石垣が組まれ、人ひとりがやっと抜けられる程の大きさしかない「るの門」は、実は天守への近道となっていました。
姫路城にこれほどの仕掛けを施したのは、徳川家臣の池田輝政(いけだ てるまさ)でした。徳川家康(とくがわ いえやす)が関ヶ原の戦いで天下を統一したとき、西国にいる豊臣恩顧の大名たちが、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の三男・秀頼(ひでより)が居城する大阪城に集結できないように、姫路城を大改修し、防衛の要にしたのです。

姫路城の大天守は、2015(平成27)年完了予定ですが、2016(平成26)年1月までの間は、この修理の様子を見学できるという珍しい専用施設「天空の白鷺」が開館しています。

金沢城
写真提供
石川県金沢城・兼六園管理事務所

2位金沢城(石川県)

油断禁物!
美しい白瓦の城に隠された多数のカラクリ

「金沢城」は、『加賀百万石』と言われる全国最大の石高を誇り、徳川御三家に準ずる別格の扱いを受けた加賀藩主・前田家の居城です。この金沢城を本格的に改修し、基礎を築いたのは初代藩主の利家(としいえ)でした。

金沢城は木造建築における先端技術を継承してきました。
石垣はそれぞれの場所に合わせて工法やデザインを変え、さらに歴代の藩主が修築を加えてきたため、「石垣の博物館」と言われる程多種多様な石垣が見られます。
また、石垣だけでなく、銃撃戦に備えた城壁や死角をつくらない窓の配置など、実戦に即した「仕掛け」も見どころのひとつとなっています。

代表的な物では、「隠し狭間(はざま)」と呼ばれる仕掛けが金沢城には多数設けられています。
この隠し狭間を外側から見ると、瓦が規則正しく並べられ、継ぎ目に漆喰を盛った「海鼠塀(なまこべい)」にしか見えませんが、内側から見ると、鉄砲を撃つための「鉄砲狭間(てっぽうはざま)」が隠されており、いざと言うときには瓦を割って鉄砲を撃ちかける仕掛けになっています。
また、武器や什器の倉庫であった「五十間長屋(ごじっけんながや)」には多数の窓がありましたが、二の丸側にある窓は、美観を優先にデザインされていますが、三の丸側の窓では、侵入者を迎え撃つために交互に配置されて死角ができないよう工夫されています。
さらに、破風(はふ)という華麗な装飾が施された出窓の床にも、侵入者に向かって石などを落とす「石落とし」の仕掛けが施されています。

さらに、金沢城天守の屋根は他の城に比べて瓦が白く見えますが、これは硬くて腐食にも強い鉛の瓦を使っているためです。鉛瓦で葺かれた屋根は白く輝いて優美なだけでなく、雪や凍結にも強く、戦時には鉄砲の弾丸として再利用することができるようになっていました。
金沢城は、雪深い地方ならではの知恵と実戦益とが融合した城と言えるでしょう。
明治以降、金沢城は軍の施設をおくため建物の一部を残して撤去されましたが、1996(平成8)年より復元整備を開始。
現在は金沢城公園として公開され、復元された往時の姿を見ることができます。

松江城

3位松江城(島根県)

桐の階段は引き上げ式!戦乱の名残を残す城

「松江城」の天守は、国の重要文化財に指定されており、全国で現存する12天守のひとつです。
平穏な時代につくられた天守とは異なり、優美な部分も保ちつつも、実戦重視で安定感のある天守です。

桐の板でつくられた引き上げ階段は、他の城では見られない松江城ならではの仕掛けです。
有事の際には、素早く階段を引き上げ、上から蓋をして敵の侵入を防ぐ仕掛けになっています。軽量で防火防腐に優れていることから、桐を使用したと考えられています。

また、「附櫓(つけやぐら)」という天守閣の入り口を守る扉には、鉄の板を貼り付けて強度と防火機能を高め、その扉の先には2段の小広間を擁し、侵入者が進みにくい仕掛けになっています。
また、石垣を登って天守に近づく敵兵に石などを落とす「石落とし」は、通常は石垣のすぐ上に建つ1階に設けることが多いですが、松江城は2階に配置。1階と2階の広さが等しい構造上の特徴を活かし、敵から仕掛けが見えないようにする工夫がされています。

このような仕掛け以外にも、実戦的な構造となっており、地階は籠城のための物資貯蔵庫として使用され、城内で飲料水が確保できるよう深さ24メートルの井戸を設けていました。
石垣は、細長い石を縦に押し込んだような「牛蒡積み(ごぼうづみ)」と言われる頑丈な積み方が採用されています。

明治初期、多くの城は旧体制の象徴として取り壊されました。
しかし松江の人たちに愛された松江城は、地元の豪農や旧藩士らの奔走によって天守の解体をまぬがれ、今も宍道湖(しんじこ)北畔から人々を見守っています。天守の最上階からは、横たわる仏の姿をした山や嫁ケ島など、360度パノラマビューを楽しむことができます。

4位高松城(香川県)

海を守りの味方につけた水攻め無効の城

高松城

「高松城」は、豊臣秀吉の四国制圧の後、生駒親正(いこま ちかまさ)によって築かれました。
現在見られる遺構は、江戸初期に四国地方の監視役として高松に移封された、水戸黄門こと徳川光圀(みつくに)の兄にあたる、松平頼重(まつだいら よりしげ)とその弟、頼常(よりつね)によって改修されたものです。

高松城は、城壁は海に面し、堀には海水が引き込まれていた日本でも珍しい海城で、当時は本丸を中心に二の丸・三の丸・北の丸・東の丸・桜の馬場・西の丸などの城郭が時計回りに配置され、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれて、軍船が直接城内に出入りすることができました。このような海城は封鎖が難しく、水を使って城を孤立させる「水攻め」や「水断ち」といった通常の攻城手段が使えないため、高松城の立地そのものが、瀬戸内の海を味方につけるなど、非常によくできた仕掛けだったと言えます。

このとき、東の丸に造られた艮櫓(うしとらやぐら)の屋根には、正面に「破風(はふ)」と呼ばれる飾りが施されていましたが、実はこの内側に「破風の間」と呼ばれる狭い屋根裏部屋があり、鉄砲狭間として使えるようになっていました。また、侵入した敵を簡単に上へ登らせないため、傾斜の強い階段を設けるなどの工夫もされています。

現在の高松城跡は「玉藻公園(たまもこうえん)」として整備され、一般に公開されています。さらに、2007(平成19)年から進められてきた天守台の積み直し工事が終了し、地元では天守閣の復元を目指しています。

5位延岡城(宮崎県)

堅固な石垣が突如崩落!?『千人殺し』の大仕掛け

延岡城
写真提供 延岡観光協会

「延岡城(のべおかじょう)」には、「千人殺し」という異名をもつ高さ22メートルの石垣があります。石垣の一部を外すと一気に石垣全体が崩れ落ち、千人の兵を殺すことから「千人殺しの石垣」と呼ばれています。本来「頑丈で崩れない」ことを良しとされる石垣ですが、この「千人殺し」は、「崩れることで敵を千人は倒してしまう」という、ある意味「逆転の発想」の産物なのです。

延岡城を築いた高橋元種(たかはし もとたね)は、もともと筑前国(現在の福岡県)の大名の次男で、豊臣秀吉の九州征伐で降伏した際に、日向国の縣(あがた/現在の宮崎県延岡市)に所領を与えられました。
関ヶ原の戦いでは、兄の種長(たねなが)と共に西軍として大垣城で籠城しましたが、元種は東軍に内通して、大垣城の守将であった福原長堯(ふくはら ながたか)を降伏させたことで、所領を取り上げられずに済みました。
そして延岡へ戻った際に築城されたのが、縣城(あがたじょう)、のちの延岡城と言うわけです。
また、元種の時代には黒塗りの下見板張りが巡らされた、豊臣の威光を示す「黒い城」でしたが、1655(明暦元)年に有馬康純(ありま やすずみ)が修築を行なった際、江戸城に倣って徳川系の白い城に造り替えたと言われています。

現在の延岡城跡は「延岡城址・城山公園」として公開されています。
主な建物の多くは空襲などで焼失しましたが、「千人殺しの石垣」は、安全のため礎石をコンクリートで固められていますが、崩されることなく今もその姿をとどめています。

コラム

大名たちが知恵を絞り、熟考されて造られた城の数々の仕掛けは、まさにアイデアの結集だと言えるでしょう。
石垣や壁を登ってくる敵兵に、上から石や熱湯などを投げつける「石落とし」や、壁の間から矢や鉄砲を撃ちかける「狭間」など、防御に適した工夫が多くの城に設けられていました。また、姫路城の「らせん式縄張り」や松江城の「桐の引き上げ式階段」、延岡城の「千人殺しの石垣」などあまり他では見かけない独特な物もあります。

その他、海に面した高松城ならではの海城の仕掛けや、加賀百万石の威光を示すために、見た目の美しさにもこだわりつつも、実践益のある金沢城など、その城がおかれた背景にも注目してみると、城の楽しみ方もさらに広がるのではないでしょうか。