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編集局が選ぶ スゴ城ランキング 第三回 有力武将が軍略上、重要と考えた城ランキング

戦国時代、天下を狙う有力武将は、軍略上重要になる「城」を手に入れようと常に考えていました。勢力拡大のためには、軍事・産業・交通面でメリットの高い城を手に入れることが重要でした。
また、城を落とせば、君主を捕獲しやすいだけでなく、城にある物資や財宝、領土など、様々な戦利品を獲得できるからです。
今回は、そんな有力武将が「軍略上、重要と考えた城」をご紹介します。

松本城

1位松本城(長野県)

金瓦と黒天守が目立つ、豊臣の力を誇示した城

黒漆塗りの天守が目立つ「松本城(まつもとじょう)」は、市民から『烏城(からすじょう)』の呼ばれ親しまれています。

1582(天正10)年「松本城」に改名する前は「深志城(ふかしじょう)」と呼ばれていました。
深志城を擁する信濃国(現在の長野県)は、街道が交差する交通の要衝にあったことから、物資や人が自然と集まり、町が栄えていきました。
軍事面から見れば、迅速な兵の移動、制限や統制をかけられること、また産業面から見ても、交易や経済の発展、情報のやりとりもスムーズになるなど、この城を手に入れることは大きなメリットでした。 それゆえに、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名であった武田信玄(たけだ しんげん)もこの深志城に侵攻し、松本平(松本盆地南部)を支配下におきました。
武田氏滅亡後も、城と領地をめぐり、周辺の上杉(うえすぎ)、北条(ほうじょう)、徳川(とくがわ)などの有力武将により激しい争奪戦が行なわれ、天下平定後も6家も大名が変わりました。

松本城が現在に近い姿になったのは、1590(天正18)年に入城した豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の家臣、石川数正(いしかわ かずまさ)が大改修を施したときです。
松本城は徳川家康(とくがわ いえやす)が支配する関東と接していたため、家康を監視する重要な役割を担っていました。
そして、家康をはじめとする周囲の大名に力を誇示し、牽制するため、松本城は黒く塗られ、破風(はふ)や壁には金箔瓦を使い、重要な城をあえて目立たせたのです。
松本城が、黒に塗られた理由は、当時、秀吉が居城にしていた大阪城が黒色だったからと言われており、豊臣権力の象徴ともなっていました。
秀吉が天下を平定した頃から、城は「領土を守る砦」から、「支配者の権威を示すもの」へと変化していきました。

現在の松本城は、最古の五重天守を今に残す他、国宝・国の史跡にも指定されており、日本だけでなく海外からも多くの観光客が見学に訪れています。
現存する12天守の中では、唯一の平城。
築城から約400年以上もの歳月が流れているとは思えない、見所のある城です。

犬山城

2位犬山城(愛知県)

東西の軍事境界にあった重要な城

「犬山城(いぬやまじょう)」は、木曽川を挟んで西に位置する美濃(現在の岐阜県)と東に位置する尾張(現在の愛知県)が接する国境にあります。
また、小高い山から美濃国を見下ろせる場所にあったため、東と西の領土争いの最前線として、敵の動きを監視し、進軍に対して最初の防御的役割を果たす重要な城でした。
さらに、中山道と木曽街道にも通じており、木曽川による交易や政治、経済の要衝でもあったことから、有力武将による熾烈な争いが繰り返されてきました。

犬山城は1537(天文6)年、織田信長(おだ のぶなが)の叔父にあたる信康(のぶやす)により築城され、1567(永禄10)年の「稲葉山城の戦い」で、信長はこの犬山城を拠点として美濃の斎藤(さいとう)氏を制圧しました。
その後も信長の後継者をめぐり、1584(天正12)年に羽柴軍(のちの豊臣)と織田・徳川軍が対立しました。
当時、犬山城主だった織田家臣の中川定成(なかがわ さだなり)に対して、織田家臣の池田恒興(いけだ つねおき)が反旗を翻して羽柴軍に寝返り、定成の留守を狙って犬山城を奪取したことから、犬山城は羽柴軍の拠点となりました。
この出来事が、一気に羽柴軍の勢力を広めるきっかけとなり、のちに「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」と呼ばれる後継者争いの引き金のひとつとなりました。

犬山城はその後も常に東西の軍事境界線にある重要拠点として有力武将に狙われ、1582(天正10)年から1600(慶長5)年の約15年間に、織田家臣と豊臣家臣が交代しながら、およそ8回も城主が変わりました。
現在の犬山城の天守は、現存する天守で最も古いとされ、国宝に指定されています。
天守の廻縁(まわりえん)と呼ばれる場所からの眺めは素晴らしく、東西南北で異なる風景を楽しむことができます。 晴れた日は岐阜城や名古屋城が見えることもあり、「行ってよかった日本の城」としても不動の人気を誇っています。

大垣城

3位大垣城(岐阜県)

東西交通と水陸中継地点として、
歴史的に重要な拠点となった大垣城

大垣の地は、東海道と東山道が通り、東西交通の要所となっていたことから、宿場町が並び古くから栄えていました。
また、揖斐川(いびがわ)をはじめ周囲に川が多いため、水上交通が盛んで宿場町も多く、水陸中継地点として政治・経済が発展した町でもあります。

「大垣城(おおがきじょう)」は、かつて斉藤道三(さいとう どうさん)と織田信秀(おだ のぶひで)による争奪戦も繰り広げられており、のちに豊臣秀吉も「かなめの所、大柿之城(おおがきのしろ)」と呼んでいた程、重要視されていました。

1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦時、大垣城は西軍・石田三成(いしだ みつなり)の本拠地となり、徳川家康率いる東軍と対峙しましたが、関ヶ原の決戦で西軍が敗れると、大垣城は東軍の手に落ちました。
江戸時代になると、徳川譜代の戸田(とだ)氏が代々城主を務めました。
明治時代には、四重四階建て総塗ごめ様式で造られた白い天守閣から、優美な城として「巨鹿城(きょろくじょう)」、「麋城(びじょう)」と称されるようになり、1936(昭和11)年には国宝に指定されました。
その後、戦災で焼失しましたが、現在は当時の姿が忠実に再建され、本丸・二の丸があった場所は「大垣公園」として、人々の憩いの場になっています。

4位米沢城(山形県)

直江兼続の知力と人々で守った城

米沢城

「米沢城(よねざわじょう)」は、東北の有力大名として名前を馳せる伊達(だて)氏や、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の重臣、直江兼続(なおえ かねつぐ)などの本拠地となるなど、名だたる人物が城主を務めた平山城です。

米沢城が最初に築城されたのは鎌倉時代だと伝えられており、当時、内陸部にある米沢にとっては、最上川(もがみがわ)が人や物資を運ぶ重要な交通路になっていました。
このため、米沢城は最上川に近い場所に築城されたと言われています。

また、古くから農業が盛んで用水の整備が行なわれたことから、米沢盆地は屈指の穀倉地帯(こくそうちたい)となり、高い生産力と安定した食料が確保できる場所として重要な拠点となりました。
漢籍などのさまざまな知識を持ち、また非常な蔵書家であった兼続は、城主となった際、その知識を活かして城や町の整備に力を注ぎました。
さらに、城下町の外に原方衆(はらかたしゅう)と呼ばれる下級武士たちを住まわせ、農業や主要な街道の防衛を任せました。
また、米沢城全体を大きな要塞に見立てて、本丸の周りには家臣団の屋敷を並べ、外側の町人町には2階建ての高い建物や蔵を並べて目隠し役を担わせ、米沢城を守りました。
このように、米沢城は兼続の知力と人々により守られ、明治維新まで米沢藩、上杉氏の本拠地として機能し、その城下町は現在の米沢市街地の基礎となりました。

現在、米沢城のあった場所には上杉神社が建てられていますが、本丸を囲む堀や土塁、「直江石堤(なおえせきてい)」がそのまま残っています。
また、伊達政宗(だて まさむね)生誕の記念碑や、徒歩圏内に上杉家や兼続の墓所があるなど、見どころも満載です。

※直江石堤:直江兼続が最上川の氾濫を治めるために設けた堤防の一部

5位長沼城(福島県)

東北の戦乱で争奪戦が繰り返された名もなき城

長沼城

「長沼城(ながぬまじょう)」は、歴史の表舞台には登場しない小さな城でしたが、何度も領土争いの標的となった城です。

長沼城があった現在の福島県中通り(中山道)は、古代から東北地方の交通の要衝として栄え、重要な拠点となっていました。

長沼城は、1260(文応元)年に奥州長沼氏が築いたと言われています。
その後、長沼氏は、蘆名(あしな)氏との戦いに敗れ、城主が変わったものの、1589(天正17)年には伊達氏の支配下となりました。
翌1590(天正18)年には豊臣秀吉が関東を制圧し、天下統一最後の仕上げとして、自分の権力が届きやすいよう東北地方の大名たちを再配置した「奥州仕置(おうしゅうしおき)」により、長沼城は蒲生(がもう)氏が城主となりました。
その奥州仕置で秀吉が会津入りした際、長沼城は御座所に定められ、秀吉が宿泊したと言われています。
1598(慶長3)年に上杉氏の領地となりましたが、わずか2年後の関ヶ原の戦いで西軍が敗北したことにより、上杉氏は領土を減らされ長沼城を手放し、1601(慶長6)年には再び蒲生氏が城主となりました。
その後、1615(元和元)年に江戸幕府より 「一国一城令」が発せられたことにより、廃城となりました。
現在、長沼城は、一部小学校になっていたり、本丸跡地は公園になっていたりしています。
そこでは、打ち込みハギの石垣が確認できます。

※一国一城令:大名が居住する城は領国にひとつだけと定められた。

コラム

ここに挙げた城は、どれも有力な武将たちが重要と考え、いくども争いが起こった城ばかりです。戦国時代の武将たちは、天下統一もさることながら、まずは自分の領地を守り、家臣に恩賞を与え、年貢で食糧を確保すると共に、農地を増やし領民を飢えさせないことが重要でした。
そのため、領土を広げたり、交易の盛んな場所を手に入れたりしようとしました。
城の争奪戦に勝つことは領土の獲得を意味しています。
したがって、国境を見渡せる位置にあったり、交通の要衝にあった城は、領土の防衛や隣国へ攻めこむときの重要なポイントになるため、軍略上重要と考えられていたのです。

このように重要拠点となる城は、支配者が変わっても廃城せず、その重臣が改修・増築しながら治めることが多いのも特徴と言えます。
特に戦国時代は、城主が何度も代わりながらも城自体は存在し続けました。

今回紹介した城は、観光名所として整備されている城や城址ばかりです。
中でも1位の松本城や2位の犬山城は絶大な人気を誇っています。
歴史読本や古地図を片手になぜ重要な城だったのかを探ってみると、新たな発見があるかもしれません。