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城×武将 武将列伝「第十回 真田幸村」

「武将列伝」の第十回は「真田幸村」をご紹介致します。

敵にも「真田日本一の兵」と讃えられた戦国最後の名武将

真田幸村

真田幸村(さなだ ゆきむら)は、1567(永禄10)年に信濃国(現在の長野県)で真田昌幸(さなだ まさゆき)の次男として生まれたとされています。「幸村」と言う名前は、江戸時代の軍記物などから広く知られるようになりましたが、生前に「幸村」と名乗った形跡はなく、実名は「信繁(のぶしげ)」が正しいようです。真田氏は、もともと信濃国小県郡(現在の長野県上田市・東御市と小諸市の一部)の国衆でしたが、幸村の祖父・幸綱(ゆきつな)が武田信玄に帰属したことから、上野国(現在の群馬県)岩櫃城(いわびつじょう)の城代(城を守る人)になりました。

父の昌幸もそれを継いで城代になり、上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し、上田城を築城。1582(天正10)年に武田氏が滅亡すると、昌幸は織田信長に帰属しました。しかし、織田信長が本能寺の変で命を落とすと、一旦は徳川家康に属するも、1585(天正13)年には上杉氏に帰属。裏切ったことに腹を立てた家康は7,000もの兵を上田城に出兵しましたが、約1,300の戦死者を出して撤退します。

一方、真田軍はわずか40人程の犠牲者で済みました。これが第一次上田合戦で、このとき幸村は上杉氏のもとに人質として出されていたようです。以降、豊臣秀吉が頭角を現すと、昌幸は豊臣政権に帰属することに。幸村はまたもや人質として大坂城へ移されたようですが、豊臣政権時に幸村の史料は少なく、詳細は明らかになっていません。

真田幸村

秀吉が死亡すると、1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦では昌幸・幸村親子は西軍につきました。しかし、幸村の兄である信之(のぶゆき)は徳川氏の家臣である本多忠勝(ほんだ ただかつ)の娘を妻にしていることから、東軍へつくことに。これは偶然ではなく、昌幸が家を存続させるために取った策だったと言われています。このように情勢をじっくり見極めて動くことから、昌幸は「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」、つまり表裏があって一筋縄ではいかない者と言われていました。

昌幸と幸村は上田城に籠り、家康軍を迎え撃ちました。家康の三男・秀忠(ひでただ)率いる東軍の中山道隊を上田城に釘付けにし、少数ながらも秀忠の大軍を関ヶ原に遅参させることに成功。これが第二次上田合戦です。しかし、2人の功績もむなしく、結果として西軍は敗北しました。本来なら昌幸・幸村親子は命を取られるところ、幸村の兄・信之とその舅(しゅうと)に当たる本多忠勝の取りなしで、紀伊国(現在の和歌山県)の九度山(くどやま)に流刑となり蟄居(ちっきょ・幽閉)されることに。

蟄居されてから11年後、昌幸は死去。その翌年に幸村は出家し、「好白(こうはく)」と名乗ったそうです。

「真田丸」で世にその名を知らしめた大坂の陣

大坂冬の陣配置図

こうした中、豊臣と徳川の間で緊張が高まると、幸村は九度山を脱出し、大坂城へ入城。このとき、秀吉の息子・秀頼(ひでより)は黄金200枚、銀30貫を出して幸村を大歓迎したと伝えられています。1614(慶長19)年に開戦した大坂冬の陣では、大坂城に籠城して徳川軍を迎え撃つ策が決まると、真っ先に「真田丸(さなだまる)」と呼ばれる土作りの出城を築城。これは秀吉が生前、大坂城の築城で悩み抜いた唯一の弱点を補強するための出城でした。ここに鉄砲隊を置いて徳川軍を撤退に追い込んだ「真田丸の戦い」が、幸村の名を天下に知らしめることに。直属の家臣が全くいないにもかかわらず、わずかな期間で浪人集団1万人を組織化したことも、高く評価されました。

冬の陣のあと、この真田丸は両軍の講話に伴って取り壊され、大坂城の堀は埋められてしまいます。家康はさらに豊臣氏の弱体化を図るため、幸村の叔父である真田信尹(さなだ のぶただ)を派遣して「十万石下さるべく候旨」と言う条件を提示して寝返るように説得。しかし、幸村がこれを断ると、家康は再び信尹に「信濃一国を与える」と説得させましたが、幸村は「十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」ときっぱり断ったと言い伝えられています。

翌年の1615年(慶長20)年に開戦した大坂夏の陣でも、幸村の活躍は目を見張るものがありました。味方の主力武将が命を落とす中、真田の軍は真正面から家康の本陣に突撃し、家康も一時は死を覚悟したと言われています。「馬印(うまじるし)」は、戦場において本陣に大将がいることを示しますが、幸村によって馬印を倒された家康の恐怖は相当なものだったはずです。家康の命を奪い損ねた幸村は、疲れ切って神社の境内で身体を休めていたところを見つけられ、享年49歳で討死。最期に「わしの首を手柄にされよ」と言葉を遺したとされています。九度山に14年間も幽閉され、故郷に帰ることも許されず、失意のどん底から這い上がった者だけが振り絞れる、最期の力だったのかもしれません。

討死する直前、国元の娘婿に宛てて、最後の決戦に臨む覚悟を述べた手紙を送っていることから、大坂城へ入ったときに死を覚悟していたと考えられます。

この奮闘ぶりは敵の徳川方にも賞賛され「真田日本一の兵(つわもの)」と言わしめた程。戦国最期の武勇伝として、「真田三代記」や「難波戦記」をはじめとする多くの軍記物や講談、小説に描かれ、昨今ではドラマ化もされています。しかし、物語で描かれるような颯爽としたイメージと異なり、小柄でもの静かな上、怒ることもほとんどなかったとか。その一方で、智謀と行動力は父の昌幸以上のものがあったと言われ、静と動の両面を持つ人物だったと想像できます。

武将と関連する城

上田城(長野県)

上田城

上田城(うえだじょう)は、真田幸村の父・昌幸が本拠地として1583(天正11)年に築城。第一次、及び第二次上田合戦の舞台となりました。千曲川の分流である尼ヶ淵に面した段丘を利用し、曲輪に大きな段差ができていることから、南側から見ると山城、北側から見ると平城の佇まい。それぞれの曲輪は平らで広く、土塁と空堀で防備した堅固な城でした。尼ヶ淵に接する断崖となっていた南側が防御性に優れていたようですが、これは徳川からの攻撃を想定した造りだと考えられています。

第二次上田合戦後の関ヶ原の合戦で、昌幸・幸村親子が属していた西軍が負けたため、上田城は徹底的に破却されました。江戸時代になると上田藩の藩庁が置かれ、兄の信之が継いだ真田氏が信濃国松代へ転封されると、代わって仙石氏が入城。破却された城を近世城郭に改築し、本丸や二の丸を石垣で囲みましたが、曲輪は真田時代から受け継いでいるようです。本丸の周囲にあったとされる7棟の櫓のうち、南櫓、北櫓、西櫓の3棟が現存。

実は明治の廃城令で西櫓以外は民間に払い下げられ、城外へ移築されていましたが、戦後に上田市が買い戻してもとの位置に復元しました。現在は古写真を手がかりに、本丸東虎口櫓門を木造で復元。旧二の丸内が上田城公園として開放され、毎年春になるとお花見客で賑わいます。

大坂城(大阪府)

大坂城

大坂城は、言わずと知れた豊臣秀吉築城の城ですが、その歴史に大きなドラマを残したのが真田幸村です。1614(慶長19)年の大坂冬の陣で、蟄居中の九度山から駆けつけた幸村は、積極的に出撃していくことを主張しましたが、受入れられませんでした。結局は籠城策が採用され、幸村は城の弱点をカバーする「真田丸」を築くことに。周囲を淀川や大和川に囲まれた大坂城は秀吉の最高傑作とも言われ、生前「大坂城は誰も落とせない」と豪語していました。

しかし、三の丸の南側だけは平坦な台地に空堀があるだけで、防御が手薄。ここに三日月形の出城「真田丸」を築き、周囲に空堀と水堀を巡らせ、東軍を引きつけて攻撃できるようにしたのです。これは父の昌幸が指揮した第二次上田合戦の経験を活かしたもの。徳川軍の前田利常(まえだ としつね)、井伊直孝(いい なおたか)、松平忠直(まつだいら ただなお)らの軍勢が挑発に乗って真田丸への攻撃を開始すると、幸村は散々に打ち破り、大損害を与えました。これが世に言う「真田丸の戦い」です。

大坂冬の陣後、和解の条件によって真田丸は破壊。大坂城も外堀だけでなく内堀まで徹底的に埋め立てられ、裸同然の状態に。このまま大坂夏の陣を迎え、幸村は命を落とし、豊臣氏も滅亡へと追いやられました。現在、真田丸の跡地には三光神社が建立され、境内には幸村の像が建てられています。

松代城(長野県)

松代城

松代城(まつしろじょう)の前身は海津城(かいづじょう)で、武田信玄が上杉謙信との因縁の対決である、川中島合戦の拠点にしていたことでも有名です。1622(元和8)年に真田幸村の兄・信之が、上田藩からこの地に転封となり、初代松代藩主として入城しました。その後、近世城郭へと整備して「松代城」と改称。武田流築城術の縄張りにならい、丸馬出や三日月堀を持ち、現在も丸馬出の跡が一部確認できます。1864(元治元)年には、九代目藩主・幸教(ゆきのり)によって城外に居館である真田邸が建てられました。

江戸時代に入って本丸が手狭になると、御殿を城の外郭に建てることが多くなりましたが、真田邸はその典型的な例。そして、日本で唯一現存している外郭の御殿です。二の丸の土塁には、過去の絵図を手本にして埋門(うずみもん)が復元されていますが、土塁の一部をくり抜いて穴を石垣で固めた構造は大変珍しく、まるでトンネルのよう。城ファンでなくても必見です。城は明治時代に入って廃城となりましたが、城下町は今も当時の趣きを残しています。

真田家伝来の大名道具などを約5万点も収蔵している真田宝物館や、映画のロケでも使用される松代藩の藩校など、見どころが点在。歴史探訪をしてみてはいかがでしょう。