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城×武将 武将列伝「第九回 伊達政宗」

「武将列伝」の第九回は「伊達政宗」をご紹介致します。

「伊達男」と呼ばれた東北の雄は独眼竜

伊達政宗

伊達政宗(だて まさむね)は、1567(永禄10)年に出羽国(現在の山形県)の米沢城で生まれ、幼名は梵天丸(ぼんてんまる)と名付けられました。先祖は源頼朝の命によって、常陸(現在の茨城県)から地頭として福島県の伊達郡に送り込まれたと言われています。

室町時代から戦国時代にかけ、陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県の一部)では宮城県北西部に本拠を置いた大崎氏が、陸奥国を統括する「奥州探題(おうしゅうたんだい)」として勢力を持っていました。伊達家はこの対抗勢力として急成長を遂げ、大崎氏に継ぐ最高序列まで躍進。その理由として伊達郡と言う地が阿武隈川に沿った交通の要所であると共に、生糸や絹織物の産地で、経済的にも他所より優れていたことが挙げられます。

やがて政宗の曾祖父・稙宗(たねむね)が室町幕府に陸奥国の守護になりたいと直訴。莫大な献金を受けていた幕府はその要求を拒否できず、陸奥国守護職に任命したのです。以降、出羽の米沢城に拠点を移し、大崎氏と肩を並べる地位までのぼりました。

1571(元亀2)年、政宗は4歳のときに天然痘(てんねんとう)にかかり、右目を失明。母親の義姫にその姿が醜いと疎ましがられ、愛情は弟の小次郎ばかりに向けられたと言われています。ここから片目での人生が始まり、のちに「独眼竜」と呼ばれるようになりました。1584(天正12)年に19歳で伊達家17代の家督を相続。1589年には摺上原(すりあげはら)の戦いで、対立していた会津の蘆名(あしな)氏と佐竹氏の連合軍を撃破し、南奥州の覇者となりました。敵対していた勢力も次々と政宗に服属し、東北の一大勢力となったのです。 この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長のあとを継いで、天下統一の事業を推し進めていました。

秀吉に従うよう伊達氏にもたびたび打診があり、北条氏を征伐する「小田原征伐」に加わるよう催促されましたが、北条氏と同盟を結んでいた政宗は直前まで悩んでいたそうです。結局兵を出したものの間に合わず、その罰として秀吉は会津を没収。遅れた理由を問いただしに来た前田利家(まえだ としいえ)らに、秀吉の側近である千利休(せんのりきゅう)から茶の指導を受けたいと申し出て、秀吉を感服させたと言われています。

伊達政宗

1591(天正19)年、会津の黒川城主・蒲生氏郷(がもう うじさと)と一緒に葛西大崎一揆を平定しましたが、政宗本人が一揆を煽ったと蒲生氏郷が告発。一揆勢宛の書状が見つかったことがきっかけでしたが、政宗は偽物だと弁明します。結局、秀吉には許されましたが、米沢城から陸奥国玉造郡の岩出山城(いわでやまじょう)に転封(領地替え)されてしまいました。しかし、秀吉から「羽柴」を名乗ることを許されるなど、何かと目をかけられていたようです。

1593(文禄2)年、秀吉の朝鮮出兵に従軍して朝鮮半島に渡りました。このとき、部隊に着せた戦装束が絢爛豪華だったため、上洛の道中でも噂になったそうです。京都においてもその素晴らしさに感嘆の声が上がり、派手な装いをする人を「伊達者(だてもの)」と呼ぶ由来になりました。

「伊達の親父殿」と徳川家光に慕われた戦国の生き字引

伊達政宗

秀吉の死後、徳川家康に接近し、長女の五郎八姫を家康の6男・松平忠輝(まつだいら ただてる)と婚約させました。関ヶ原の合戦では家康側の東軍に付き、岩出山転封時に没収された旧領6郡49万石を自力で回復する約束を取り付けたにもかかわらず、取り戻せたのは陸奥国刈田郡の2万石のみ。加えて岩崎一揆を煽ったことが発覚し、合戦の恩賞を求めてもことごとく却下されて、領地は60万石に止まりました。

このことを受けて1601(慶長6)年、政宗は仙台城と城下町の建設を始め、仙台藩の初代藩主に着任。徳川幕府からは松平の苗字を与えられ、「松平陸奥守(まつだいらむつのかみ)」と称すようになりました。世の中が落ち着くと、領国の開発に力を入れ、運河の整備や北上川水系の流域を開拓し、米の一大産地へと成長させて今に至ります。北上川の河口に石巻港を建設し、水運を通じて江戸へ米を輸出したことから、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と記述される程になりました。

徳川幕府には2代将軍の家忠、3代将軍の家光まで仕えました。豊臣秀吉から拝領した刀を秀忠に譲るよう要求された際、「殿に献上する品を選ぶのは家臣である私の勤め。殿自ら所望されるのは、将軍家の品位を損なうものです」と断ったとか。そのような言動が許される程、徳川家とは友好関係にあったのでしょう。また、家光は「伊達の親父殿(おやじどの)」と親しみを込めて呼び、祖父の家康を尊敬していたことから、戦国の雄として共に戦ってきた政宗のことも同様に尊敬していたようです。外様大名である政宗を特別扱いしていたのは明らかで、将軍の前で脇差帯刀を許可したり、二条城へ参内する際、御三家でも許されなかった将軍を象徴する紫の馬の総(ふさ)を与えたりなどしました。

政宗が江戸で病床に伏すと、死後3日前に家光自らが見舞いに訪れ、医者の手配や江戸中の寺社に祈祷を行なわせたそうです。1636(寛永13)年、政宗が亡くなると、家光は父の秀忠が亡くなったときよりも嘆き、江戸で7日間、京都で3日間、殺生や遊興を禁止しました。戦国時代を闊歩してきた政宗を心から慕っていたことがうかがえます。

なお、政宗は1613(慶長18)年に家臣の支倉常長ら180人余りを慶長遣欧使節団としてヨーロッパに派遣。ローマにおいて常長は貴族と同等の待遇を受け、ローマ教皇にも謁見しました。目的はスペインの通商交渉だったと言われていますが、軍事同盟を結んで倒幕を企てていたという説もあります。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3武将よりも生まれが遅かったので、天下取りに参加できなかったと言われる政宗ですが、実は最後の最後まで天下を狙っていたのかもしれません。

武将と関連する城

仙台城(宮城県)

仙台城

別名「青葉城(あおばじょう)」と呼ばれる「仙台城(せんだいじょう)」。伊達政宗が標高140メートルの青葉山に築いた山城で、山頂に本丸、山麓の二の丸に居館を置いた、旧式の中世城郭です。大手門は格式が高い佇まいで、菊紋や桐紋で装飾された桃山文化を代表するような造りでした。この門は佐賀県の名護屋城(なごやじょう)から移築されたという説もあります。戦前は国宝でしたが空襲で焼失。現存していれば間違いなく日本一格式の高い櫓門だったと思われます。

東北地方で最も立派だと言われる石垣も必見。大手門隅櫓と対する石垣は、城内で最も新しく、完成度の高い切込接(きりこみはぎ)です。1997~2004(平成9~16)年の発掘調査では、現石垣の内側から政宗による築城期の石垣と、そのあとに修繕された石垣が発見されました。度重なる地震で精巧な技を編み出し、高石垣を築いていった歴史を物語っています。

また、仙台城は江戸幕府が開幕したあと、太平の世に築城されたため、政治的拠点としての要素が高いように思われがち。しかし、本丸には枡形虎口が残っている他、下から上がる道は複雑に曲がって行く手を阻むように造られているなど、軍事的な意味合いが強かったことがうかがえます。関ヶ原の合戦後もなお、天下を取ることを視野に入れて築城したのかもしれません。現存する建造物はありませんが、石垣はぜひ見ておきたい遺構です。

米沢城(山形県)

米沢城

山形県米沢市の中心部にある「米沢城(よねざわじょう)」は、1238(暦仁元)年に鎌倉幕府の重臣だった大江広元(おおえ ひろもと)の次男・長井時広(ながい ときひろ)が築城。150年程あとに伊達氏が支配することになり、伊達政宗はこの城で産声を上げました。政宗はここを本拠地に勢力を伸ばし、中央まで名を馳せるまでになったのです。豊臣秀吉から岩出山城へ転封されると一時蒲生氏が支配しましたが、1597(慶長2)年に上杉景勝(うえすぎ かげかつ)がこの地に入封。その重臣で知将である直江兼続(なおえ かねつぐ)が城主として入城しました。

上杉氏は関ヶ原の合戦に参加しませんでしたが、豊臣氏へ恩義を抱いていた兼続が「直江状」という文書で徳川氏を強く弾劾したため、西軍が敗退すると上杉氏は減封されることに。現存する米沢城は、減封されたあと、上杉景勝が兼続に命じて大改修したものです。東北らしく石垣を遣わず、城を守るのは土塁と水堀。しかし、縄張りはほぼ四角で、新しい城郭の兆しも感じさせています。

天守はありませんでしたが、東三階櫓と西三階櫓があったようで、これは近世の天守で言えば三重天守に相当。米沢上杉氏の開祖である上杉謙信の遺骸を越後(現在の新潟県)の春日山城(かすがやまじょう)から移して安置し、南西の隅に謙信を祀った御堂を置きました。上杉氏の格式にしては質素な造りですが、これは春日山城の麓にあった関東管領邸にある御館にも共通しているものがあり、上杉氏の伝統的な城館建築法。伊達政宗と直江兼続ファンは必見です。

白石城(宮城県)

白石城

白石城(しろいしじょう)は、1591(天正19)年に戦国時代の武将・蒲生氏郷(がもう うじさと)の家臣・蒲生郷成(がもう さとなり)が築城しました。関ヶ原の合戦後に伊達政宗の重臣・片倉小十郎景綱(かたくら こじゅうろう かげつな)が城主となり、大改修。明治維新まで片倉氏の居城となりました。豊臣秀吉と徳川家康の2人の天下人から「国家の大器」と呼ばれた伊達政宗の右腕となった景綱は、様々な場面で重要な役割を遂行。豊臣秀吉による小田原征伐で政宗が参戦を決めかねていたとき、景綱が背中を押して伊達氏の窮地を回避したことでも知られています。

徳川家から一目を置かれていた仙台藩は、1615(元和元)年に幕府から一国一城令が出されても、仙台城と白石城の2城を存続することを特別に許されました。標高76メートルの最頂部に本丸と二の丸、中の丸、西曲輪、中段に沼の丸、南の丸、巽曲輪(たつみくるわ)などを配し、館堀川(たてぼりかわ)と空堀で丘陵を切断し、三の丸や外曲輪を造っています。本丸は高さ9メートル程の石垣を土塁で囲み、三階櫓などの3棟の櫓と2棟の門、御殿などが建っていました。現在は、三階櫓と大手門が復元されていますが、幕府に配慮して「天守」とは呼ばず、「大櫓」と呼んでいたようです。三の丸外堀に復元された、片倉家の家臣・小関家の屋敷を復元した、片倉家中武家屋敷も見どころです。