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城×武将 武将列伝「第八回 上杉謙信」

「武将列伝」の第八回は「上杉謙信」をご紹介致します。

「義」のある関東管領として東奔西走

上杉謙信

上杉謙信(うえすぎ けんしん)は、越後(現在の新潟県)の守護代を勤めた長尾為景(ながお ためかげ)の四男で、1530(享禄3)年に春日山城(かすがやまじょう)で生まれ、虎千代(とらちよ)と名付けられました。その後、元服名を長尾景虎(ながお かげとら)とし、長尾家が仕えた上杉家の窮地を救うと、その功績を買われて上杉家の家督を受け継ぎ、関東管領の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)から1字譲り受けて上杉政虎(うえすぎ まさとら)と名乗ります。

そして、関東管領も引き継ぎ、室町幕府の将軍・足利輝義(あしかが てるよし)から1字譲り受けて輝虎(てるとら)と名乗り、この名で生涯の幕を閉じました。謙信は死去後の戒名(かいみょう)で、後世には上杉謙信の名で語り継がれています。

上杉謙信と言えば、「川中島の戦い」で武田信玄(たけだ しんげん)と4回にもわたる戦いを交えたことが有名で、信玄が「甲斐の虎」と呼ばれたのに対し、謙信は「越後の虎」と呼ばれていました。しかし、その猛々しい名前とは裏腹に、謙信はとても義理がたく、正義と勝利のために生涯不犯(しょうがいふぼん)、つまり女性との関係を持つこともなく、妻帯しなかったと言われています。

また、「たとえ越後を失っても、将軍のために忠節を尽くします」と誓約した程、足利将軍家と朝廷を崇敬しました。味方勢力にも情け深く、援軍を求められると断ることなく出兵。北条氏に領国を脅かされていた関東管領の上杉憲政に頼られると、謙信は北条氏の討伐を計画しました。武蔵(現在の東京都と埼玉・神奈川県の一部)へと入り、次々と北条氏の城を攻めると、10万もの兵を率いて北条氏康(ほうじょう うじやす)の居城である小田原城(おだわらじょう)を包囲。これが1561(永禄4)年に起きた「小田原城の戦い」です。

しかし、川中島で武田軍の勢力が増大していることを知ると、1ヵ月にも及ぶ包囲を解いて越後へと帰還しました。同年、上杉憲政から上杉家の家督を継ぐと同時に関東管領の要職にも就任。京都の室町幕府から命を受けて関東の守護や地頭を統率する関東管領に就いた謙信は、持ち前の正義感でさらに東奔西走することに。自分の利益を後回しにしてまでも、周りを助けようとするその姿は、まさに義に生きた武将だと言えるでしょう。

「敵に塩を送った」という伝説が語る人柄

謙信にまつわる逸話や伝説は数多くありますが、一番有名なのは宿敵である武田信玄に塩を送ったと言う話です。武田氏の領国である甲斐(現在の山梨県)と信濃(現在の長野県)は内陸のため、塩を採取できません。上杉氏と同盟を結んでいた駿河(現在の静岡県中部)の今川氏真と関係が悪化したことから、武田氏が「塩止め」を受けているのを見かね、謙信は「私は戦いでそなたと結着をつけるつもりだ」と武田軍に塩を送ったとされています。

これは伝説に過ぎないと言う見方が有力ですが、正義感の強い人柄を表現して語り継がれているのでしょう。兄との家督相続争いに巻き込まれていた幼少期、実父に疎ましがられて寺に入れられ、当時育んだ厚い信仰心が影響しているのかもしれません。

また、謙信が「越後の虎」や「軍神」と呼ばれるようになった背景には、少ない兵力で勝ち続けたことが理由として挙げられます。1572(元亀3)年には、浄土宗本願寺教団によって組織された加賀一向一揆(いっこういっき)と越中一向一揆が合流し、大軍となって上杉氏の属城を攻略し始めると、「尻垂坂(しりたれざか)の戦い」で圧勝をおさめました。1576(天正4)年の「七尾城(ななおじょう)の戦い」では能登(現在の石川県北部)を平定し、1577(天正5)年の「手取川(てどりがわ)の戦い」では織田軍を撃破。しかし、越中、信濃、関東の三面と向き合いながら少ない兵力で戦い続けるのは無理があり、家臣や領民にとっては大きな負担となったようです。晩年は家臣の謀反(むほん)が重なり、内部統率に苦労していました。

そういったストレスを晴らすためか、謙信はかなりの大酒飲みだったようです。山形県の上杉神社に展示されている春日杯(かすがはい)や馬上杯(ばじょうはい)は謙信が日夜愛用していた杯と伝えられ、春日杯は直径10センチ、深さ6.5センチもあります。手取川の戦いで勝利をおさめ、春日山城に帰還して約3ヵ月後、次の遠征準備のさなか、城内の厠(かわや トイレ)で倒れ、昏睡状態が続いたのちに帰らぬ人となりました。

享年49歳、死因は脳溢血と言われています。休む暇もなく東奔西走し、過労に加えて大酒飲みだったことが死期を早めたのかもしれません。

武将と関連する城

春日山城(新潟県)

春日山城

春日山城(かすがやまじょう)」は、代々長尾氏が居城にしてきた城を、謙信が大規模に整備して完成させました。標高180メートルの春日山を土台にした大規模な山城で、自然の起伏に沿って堀切を入れ、200もの曲輪を築いています。恐らくこの数は日本最多。ただし、城の面積が広大だった訳ではなく、険しい山を切り崩して築いているため、ひとつひとつの曲輪(くるわ)は小さく、防御としての能力は劣ります。狭い曲輪に虎口を築くこともできず、城兵が籠ることもできません。

このようにした理由は、そもそも本城内で戦う概念がなく、周囲に支城を置いて総合的に本城を守るという考え方があったからでしょう。戦いの神・毘沙門天を厚く信仰していた謙信は、城内に毘沙門堂を建立し、出陣前には何日も籠って勝利を祈祷していたと言われています。 謙信の死後、養子に入った景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)が家督相続を争うこととなり、その舞台となった春日山城は血に染まりました。

謙信のあとを継いだ景勝が1598(慶長3)年に会津へ転封(てんぽう)されると、堀秀治(ほり ひではる)が入城し、土塁や水堀を築いて強化。現在は井戸曲輪、土塁、監物堀(けんもつぼり)と呼ばれる外堀が復元されています。監物堀の名は、堀秀政が家臣の堀監物直政(ほりけんもつ なおまさ)に命じて築かせたことに由来。春日山城の麓にある「ものがたり館」では、上杉謙信の人となりを知ることができるビデオ上映や、江戸時代に描かれた春日山城の絵図を見ることができます。

栃尾城(新潟県)

栃尾城

「栃尾城(とちおじょう)」が築城された年代は不明ですが、南北朝時代末期と考えられています。越後守護として入国した上杉氏の家臣である長尾家の属城となり、本庄氏がおさめていました。謙信が14歳の頃、実父に疎ましがられていた彼は上越の林泉寺に送られて坊主になる予定でしたが、父が死去してあとを継いだ実兄の長尾晴景(ながお はるかげ)の命で栃尾城へ入城。この頃、越後は大変乱れていたため、それを鎮圧する目的でした。

しかし、近隣の豪族たちは弱冠14歳の謙信を侮り、攻撃を仕掛けてきます。栃尾城主の本庄実乃(ほんじょう さねより)や母方の地元である栖吉城(すよしじょう)などの協力を得て、謙信はそれらの鎮圧に成功しました。これが謙信の初陣だと言われています。その後も黒滝城(くろたきじょう)の黒田秀忠(くろだ ひでただ)の謀反を討伐し、越後中にその名を轟かせました。そのことに危機感を抱いた兄の長尾晴景は、謙信討伐を企てましたが、謙信は米山合戦で大勝し、春日山城下に迫ります。

この内紛を見かねた守護の上杉定実(うえすぎ さだざね)が仲裁に入り、1548(天文17)年に春日山城に移り、兄に代わって越後守護代に就くこととなりました。栃尾城は、謙信が多感な時期を過ごし、武将として華々しく門出を飾った城と言えるでしょう。

現在は、栃尾城本丸跡に大展望台があり、若き謙信が見た栃尾市街の景色を見ることができます。

唐沢山城(栃木県)

唐沢山城

「唐沢山城(からさわやまじょう)」は、関東七名城に数えられる城で、栃木県佐野市の唐沢山山頂に本丸を置く山城です。築城は927(延長5)年に遡り、代々佐野氏が城主として守ってきました。戦国時代に入ると、敵対する越後の上杉氏と相模の北条氏の二大勢力に挟まれましたが、第15代当主である佐野昌綱(さの まさつな)は上杉謙信と同盟を結びます。すると1559(永禄2)年に北条氏政(ほうじょう うじまさ)が3万5千の兵を引き連れて城を包囲。謙信は即座に援軍を送って北条軍を撤退させました。

しかし、昌綱の子、宗綱(むねつな)は上杉氏に入った実の兄弟である虎松丸(とらまつまる)と不仲になり、一族内で「唐沢山天正の乱」が起こると、佐野氏は上杉氏と決別。1576(天正4)年に虎松丸に加勢した上杉謙信は、1万5千の兵でこの城を攻めましたが、佐野氏の一族が加勢して謙信の軍を撤退させました。何とその回数は十数回にも及んだとか。「軍神」として名を馳せた謙信を手間取らせた、非常に堅固な城だったようです。

本丸や二の丸、物見のための南城には関東最古の石垣が残されています。山麓との標高差が180メートルもある急峻な唐沢山山頂からは、天気が良ければ80キロメートルも離れている新宿の高層ビル群や、東京スカイツリーを見ることができます。