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城×武将 武将列伝「第七回 武田信玄」

「武将列伝」の第七回は「武田信玄」をご紹介致します。

戦よりも実務力に優れていた信玄

武田信玄

武田信玄(たけだ しんげん)と聞いて真っ先に思い浮かべるのが「風林火山(ふうりんかざん)」。この四文字が書かれた軍旗を背負って天下を狙い、果敢に攻める姿は「甲斐の虎」とも例えられましたが、実際には人生のほとんどを信濃統一に費やしていたと伝えられています。若くして家督を継いだことで、近隣諸国から次々と攻撃を受けましたが、信玄はこれを撃退。勢いに乗って北信濃の戦国大名・村上義清(むらかみ よしきよ)の城である砥石城(といしじょう)を攻めますが、のちに「砥石崩れ」と呼ばれ、生涯の中で最大の負け戦になりました。

しかし、味方武将に命じて村上軍の武将達を調略し(策略で陥れること)、砥石城は武田軍の手に落ちることに。さらに勢いに乗った信玄は、宿敵である上杉謙信(うえすぎ けんしん)と1553(天文22) 年の第一次合戦から、1564(永禄7)年の第五次合戦まで続いたと言われる「川中島(かわなかじま)の戦い」に突入しました。

中でも武田軍、上杉軍ともに最大の死者を出した1561(永禄4)年の第四次合戦では、川中島の東側に築いた武田軍の海津城(かいづじょう)の存在が大きな意味を持っていたと言われています。前半は上杉軍が優勢で、信玄は命の危機にさらされましたが、後半は武田軍の猛攻によって上杉軍を蹴散らし、武田軍が優位に立って終わりました。

結局、勝敗がつくことはありませんでしたが、信玄による信濃の平定は続くこととなったのです。平定を成功させた政策として、通称「信玄家法」と呼ばれた分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」による検地で国を支配する基盤を築いたことや、治水事業を行なって新田の開発に力を尽くしたことなどが挙げられます。戦よりも実務力に優れていたと言われる理由でしょう。信玄の旧臣たちが、のちに徳川家康の配下に多く召し抱えられていることから、人を教育する能力にも恵まれていたようです。

「人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」という信玄の言葉に、人となりが表れているのかもしれません。

徳川・織田軍を破った三方ヶ原の戦いへと導く二俣城の戦いにおける水の手作戦

川中島の戦いのあと、武田信玄が目を向けた先は天下でした。当時、室町幕府の将軍だった足利義昭は織田信長と対立。信長討伐のために上洛の要請を受けた信玄は、約3万の大軍を率いて、まずは徳川家康の所領である遠江(現在の静岡県浜松市)へ侵攻したのです。普通の武将であればひとつの城を落とすのに何日も掛かるところ、1日で次々と落とし、ついには1572(元亀3)年の一言坂の戦いで徳川軍に大勝しました。

その後、家康の本城である浜松城、掛川城、高天神(たかてんじん)城のちょうど中間地点にある二俣(ふたまた)城を包囲。二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵地にある城で、この川が天然の堀となって城を防御していました。信玄は城を守っていた中根正照(なかねまさてる)に降伏するよう勧告しましたが、織田の援軍を期待していた正照はこれを拒否。このやりとりをきっかけに武田軍が攻撃に出て、1572(元亀3)年の10月から約2ヵ月にわたって二俣城の戦いが行なわれたのです。

ところが攻め口がひとつしかなく、思うように攻撃ができない武田軍側にも多くの犠牲者が出ました。そこで信玄は力ずくで攻めることをあきらめ、水を断つ方法を考案。二俣城には井戸がなく、天竜川沿いの断崖に釣り瓶で水をくみ上げる井楼(せいろう)で水をまかなっていました。それを知った信玄は、筏(いかだ)を天竜川の上流から何度も流して、井楼の柱を壊したのです。水を得る手段を失った正照は断水に苦しみ、降伏して開城すると浜松城へ落ちることに。信玄のアイデアが勝利へと導いたと言えるでしょう。

この大敗を知った徳川家康は、武田軍の狙いが浜松城だと考え、籠城(ろうじょう)戦に備えていましたが、武田軍は二俣城を出発して浜名湖に突き出た堀江城を標的にするように進軍。浜松城を素通りされた家康は、三方ヶ原で武田軍を後方から襲う作戦を考え、家臣たちの反対を押し切りながら追撃に出ました。

ところが、武田軍はすでに三方ヶ原で陣を布いて迎撃する準備をととのえていたのです。攻撃を仕掛けた徳川軍でしたが、武田軍に戦力・戦術ともに劣っていたため、わずか2時間で大敗してその場を立ち去り、浜松城へと逃げ帰りました。これが世に言う三方ヶ原の戦いで、このときの屈辱を忘れないようにと、家康が苦渋の表情を肖像画として描かせた「しかみ像」はとても有名です。さらに三河へと進撃した信玄でしたが、途中で病に倒れて無念の死を遂げ、武田家は衰退の一途を辿ることとなりました。

一方、武田軍の戦術をそのまま関ヶ原の戦いで用いた家康は、西軍を野戦におびき寄せて大勝し、天下統一したという俗説もあることから、恨めしさを抱きながらも、武田信玄をある意味で尊敬していたとも考えられます。

武将と関連する城

牧之島城(長野県)

牧之島城

鎌倉時代にこの地を支配していた香坂氏によって築城された牧城が基礎になっています。戦国時代に当時の当主が武田信玄に無血開城し、代わって信玄の腹心である馬場信春(ばば のぶはる)が入城しました。

その後の1566(永禄9)年、信玄が牧城の一部に築かせたのが「牧之島城(まきのしまじょう)」です。越後に対する防備と、松本から善光寺間の押さえとしての役割を果たすため、犀川(さいがわ)が大きく蛇行して半島状になった高台に築き、三方を犀川に囲まれた守りの堅い城でした。本丸の大手虎口(おおてこぐち)を守るために三日月形の堀を巡らせ、半円型の土塁を設けた丸馬出(まるうまだし)は半円形にすることで、射撃のときに死角がなくなり、十字砲火を可能にし、「千人枡(せんにんます)」と言われる隠れ枡形など、甲州流の築城方法を今日に伝えています。現在も水堀や土塁、空堀などが良好な状態で残っています。

高根城(静岡県)

高根城

「高根城(たかねじょう)」は、長野県と静岡県の県境にあり、15世紀前半にこの地の豪族であった奥山氏によって築城されたと言われています。

その後、今川氏、徳川氏、武田氏への帰属を巡って内部分裂が起こり、1572(元亀3)年に武田氏の支配下に入りました。信玄・勝頼の親子によって大改修され、遠州攻めにおける川を渡るための拠点「橋頭堡(きょうとうほ)」として役割を果たした山城です。現在は、中世城郭の様子をうまく再現した櫓や土塀、柵列などが作られており、まるで映画のセットのよう。当時の遺構も残されており、深くえぐり込むような堀切や、城内道を見ることができ、山城マニアの心をくすぐるはずです。

高遠城(長野県)

高遠城

河川に沿ってできた階段状の地形に築くのが武田流を象徴する築城方法だと言われていますが、「高遠(たかとお)城」も三峰川と藤沢川が合流する段丘上に築かれています。

中世城郭と近世城郭は基本的に構造が全く異なりますが、高遠城は曲輪(くるわ)が平たく大きかったため、中世の城郭をほぼそのまま近世の城郭に転用した日本唯一の例。石垣を一切築くことなく、曲輪を囲っている大きな空堀と土塁が特徴的です。空堀の端にある日本に現存する中では最大級の竪堀は、中世城郭の面影を今に残しています。

また、この城は武田氏最後の合戦の舞台で、武田勝頼(たけだ かつより)の弟、仁科盛信(にしな もりのぶ)が織田信忠(おだ のぶただ)の大軍に攻められ、壮絶な討ち死をした場所でもあります。落城の9日後に勝頼は自刃し、武田氏はあえなく滅亡しました。