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城×武将 武将列伝「第六回 池田輝政」

「武将列伝」の第六回は「池田輝政」をご紹介致します。

三英傑に重用された初代姫路藩主

池田輝政

池田輝政(いけだ てるまさ)は、戦国時代の三英傑と名高い、織田信長(おだ のぶなが)・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)・徳川家康(とくがわ いえやす)に仕え、戦乱の時代を生き抜いた武将です。
秀吉からは『羽柴』の姓を許され、後年には家康からも『松平』の姓を名乗ることを許されるなど、『東西の天下人から信頼を得た』類い稀なる人物です。
これ程までに信頼を得た理由は、武功を上げることに専心する実直さが評価されてのことだと言われています。

1564(永禄7)年、輝政は織田信長の重臣であった池田恒興(いけだ つねおき)の次男として尾張清洲(現在の愛知県清須市)に生まれました。
幼少より武勇に優れ、兄・元助(もとすけ)と共に信長の近習(護衛役)となりました。
そして、輝政が16歳のとき、信長に謀反を起こした荒木村重(あらき むらしげ)を討伐する『花隈城(はなくまじょう)の戦い』に参戦し、抜群の武功を立て、信長より感状を授けられました。
さらに、摂津国(現在の大阪北中部~兵庫南東部)を拝領した父の恒興と共に『尼崎城(あまがさきじょう)』に入城しました。

1582(天正10)年に『本能寺の変』で信長が没したのちは、父と兄と共に羽柴秀吉に仕えます。
父は美濃大垣城、輝政は摂津池尻城を任されますが、翌年の『小牧・長久手の戦い』で父と兄が相次いで討ち死にしました。
輝政も敵陣へ突入しようとしましたが、家臣の乾長次(いぬい ながつぐ)の説得により一命を取り留めました。
身内を失ってもなお、秀吉のために戦おうとした輝政ですが、秀吉は池田家の作戦失敗による敗戦を咎め、古参の池田家家臣である伊木忠次(いぎ ただつぐ)に池田家の6万石を分け与えて大名に取り立てようとしました。
しかし、忠次はこれを固辞し、逆に輝政の家督相続を願ったと言われています。
忠臣に恵まれた輝政は、池田家の家督を継ぎ、大垣城主となりました。

その後、『紀州雑賀攻め』『佐々成政(さっさ なりまさ)征伐』『九州平定戦』などに参戦し、秀吉のもとで着実に実績を積み上げていきました。
そして、1584(天正12)年に岐阜城へ入り、10万石の領主へと出世します。
さらに、1590(天正18)年の『小田原征伐』では先陣を務め、その功によって15万2千石を拝領し、三河国(現在の愛知県東部)の拠点である吉田城の城主となりました。

1594(文禄3)年、輝政は秀吉の計らいで徳川家康の次女である督姫(とくひめ)を継室に迎えます。これについては、「小牧・長久手の戦いで父と兄を討たれ、仇と恨んでいる輝政を、家康が懐柔するため秀吉に働きかけた」という説や、「秀吉側に、重臣である輝政と徳川家との縁組みで家康をけん制する意図があった」という説など解釈は分かれますが、この縁組みが、秀吉の没後の輝政を家康のもとへと導く要因となりました。

1598(慶長3)年に秀吉が没すると、舅にあたる家康に属し、『関ヶ原の戦い』で戦功を上げたことから播磨姫路52万石を与えられ、初代姫路藩主を任じられました。
各地を治める息子や兄弟などを合わせると、池田氏は90万石にも及び、「姫路宰相」や「西国将軍」と呼ばれ、豊臣恩顧の大名でありながら、家康から別格の厚遇を受けました。
このように、輝政は巧妙な政治工作ではなく、軍功による褒賞として着実に城を獲得し、出世したということが分かります。

なぜ家康は輝政に姫路城を任せたのか

姫路城鳥瞰図
姫路城鳥瞰図(明治初期)

関ヶ原の戦いのあと、大阪城の豊臣秀頼(ひでより)との最終決戦を迎える可能性を予測していた家康にとって、西国から豊臣恩顧の大名たちが大阪城に馳せ参じることは大いなる脅威でした。
また、秀頼が山陽道を西に下り、西国の豊臣勢と合流することも断固阻止しなければいけません。そこで家康は、彼らを分断するために姫路城を築城し、豊臣残存勢力に対して睨みを利かせようと考えたのです。

その姫路城築城の責任者として白羽の矢を立てられたのが輝政でした。
この命を受けた輝政は、1601(慶長6)年より9年間にも及ぶ姫路城の大改修を行ないます。
まず、それまでの建物をすべて取り除き、縄張(道筋)を改めて新しい城郭を築くことから着手。
本丸・二の丸は姫山に、西の丸は鷺山に置かれ、その規模は、内郭は東西465メートル南北543メートル、外郭は東西1,418メートル、南北1,854メートルにも及びました。
このように見事な巨大要塞に作り上げ、家康の期待に応えたのでした。

家康は、娘婿とはいえ、なぜそのような重大な役割を外様大名(関ヶ原の戦い前後から徳川家に仕えた大名)である輝政に任せることができたのでしょうか。
その理由が分かるエピソードがいくつかあります。

姫路城の改修の際、「今のままでは山が近く地の利が悪いので、城の場所を移転すべき」と進言した家臣に対して、輝政は「籠城を考えるからそう思うのだ、武士たるもの、いつでも打って出る覚悟を持たなければ勝つことなどできない」と答えたそうです。
輝政は、城に頼り、守ってもらうことなどは一切考えず、常に戦う姿勢や心意気を持っていたことがうかがえます。
また、実績のある家臣ならば、多少の不祥事や失敗があっても、それが私利私欲のためでないと分かれば鶴の一声で救済し、その救済された家臣たちは、輝政のためにさらに奉公に励んだと言われています。
輝政は、武勇に優れていたことはもとより、強いリーダーシップと家臣を思う懐の深さを持つ武将だっただけに周囲の信頼も厚かったのではないでしょうか。

武将と関連する城

岐阜城(岐阜県)

岐阜城

「岐阜城」は、輝政が小牧・長久手の戦いの功績で得た城です。
京都から東への要所にあるため、常に争奪戦が繰り広げられてきました。
岐阜城の基礎は、1201(建仁元)年に二階堂行政(にかいどう  ゆきまさ)が稲葉山に築いた砦です。その後、廃城になったところ、美濃守護代の斎藤利永(さいとう としなが)が修復して斎藤氏の居城としました。 織田信長の舅である斎藤道三(どうさん)もここを拠点としています。

1567(永禄10)年には信長が稲葉山城の戦いを征し、本拠地を小牧山城からこの稲葉城に移します。
信長は中国の故事(周王朝の文王が岐山により天下を平定した)にちなんで町の名を「岐阜」と改め、城の名前も稲葉城から「岐阜城」と改名しました。
1576(天正4)年、嫡男の信忠(のぶただ)に家督を譲った信長は、岐阜城も信忠に与えますが、信長・信忠親子が本能寺の変で倒れてからは、次々に城主が変わったのち、1584(天正12)年に輝政が城主になりました。

1591(天正19)年には転封により輝政が吉田城へ去り、豊臣秀勝(ひでかつ)が入城します。
秀勝が没すると織田秀信(ひでのぶ)が城主となりますが、1600(慶長5)年、石田三成(いしだ みつなり)の挙兵に呼応して岐阜城に立てこもったため、福島正則(ふくしま まさのり)と輝政によって攻め落とされます。そして翌年、岐阜城は徳川家康によって廃城とされ、天守閣や櫓などは加納城に移されることになりました。

現在、城跡は岐阜公園の一部として整備されており、天守は1956(昭和31) 年に3層4階の鉄筋コンクリート造りで復興されました。日没から夜10時までライトアップされ、岐阜市のシンボルとなっています。城内には史料展示室もあり、楼上の展望台からは壮大な眺望を楽しめます。

吉田城(愛知県)

吉田城

池田輝政が岐阜城のあと、城主になったのがこの「吉田城」で、1505(永正2)年、今川氏に属する武将、牧野古白(まきの こはく)が築城したと言われています。
豊川と朝倉川が合流する地点に築かれた吉田城は、昔から三河支配の重要拠点のひとつに位置付けられていました。
1505(永正2)年、築城当初は、素掘りの堀と土盛による簡素な構造だったと考えられていますが、今川氏が直接支配するようになり戦略的重要度は一気に上昇。
1560(永禄3)年、今川義元(いまがわ よしもと)が桶狭間の戦いで信長に敗れると、松平家康(まつだいら いえやす/のちの徳川家康)によって攻略されます。
1590(天正18)年、秀吉により家康が関東に移封された際、輝政が吉田城の城主となりました。輝政は大規模な城の改修及び城下町の整備、さらには吉田大橋の架け替えなどに着手しましたが、完成を見ることなく1601年(慶長6)年、播州姫路に移封されました。

江戸時代に入ってからも、吉田城は東海道の重要な防衛拠点であったことから、徳川家に縁の深い譜代大名しか城主になることが許されず、しかも幕府の要職である老中や大坂城代、京都所司代などを数多く輩出したため、「出世城」などと呼ばれるようになりました。

現在は、本丸・二の丸・三の丸・藩士屋敷地の一部などが豊橋公園として利用されています。
遺構としては、曲輪(くるわ)跡・石垣・空堀・門跡・土塁・櫓(やぐら)跡などが良好な状態で残されており、本丸の石垣は2005(平成17)年の修復の際に輝政時代の石垣であることが判明しました。
また、唯一の再建造物として鉄櫓(くろがねやぐら)が模擬再建され、日曜祝日に一般開放されています。

姫路城(兵庫県)

姫路城

姫路城のルーツは、「南北朝時代にあたる1346(正平元)年に、赤松貞範(あかまつ さだのり)によって築城されたのが始まりとする説」と、「豊臣秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛(くろだ かんべえ)の祖父・黒田重隆(しげたか)、父・職隆(もとたか)が築城したという説」がありますが、前者の説が有力です。

戦国時代後期から安土桃山時代にかけては、山陽道の交通の要衝を守る城として本格的な城郭に拡張されますが、現在に残る姿に大規模修築したのは徳川家康の命を受けた池田輝政と言われています。 江戸時代には姫路藩の藩庁となり、引き続き西国の外様大名を監視するため西国探題(裁判機能を持った役所)が設置されていましたが、その責務が重大であることから、能力重視で城主が変わりました。
池田氏のあとは譜代大名の本多氏、榊原氏、酒井氏、親藩の松平氏など、輝政から数えると明治維新までの約270年間で6氏31代が姫路城の城主を務めています。
その名残として、姫路城の軒丸瓦には歴代城主の多様な家紋が残されており、池田氏の揚羽蝶、本多氏の三ツ葉立ち葵、榊原氏の源氏車(げんじぐるま)、奥平姓松平氏の沢瀉(おもだか)、松平氏の三ツ巴、酒井氏の剣酸漿(けんかたばみ)などの家紋を確認することができます。

1993(平成5)年、姫路城は法隆寺と共に日本初のユネスコ世界文化遺産に指定されました。
明治時代より幾度となく補修工事が行なわれていますが、2009(平成21)年から行なわれている「国宝姫路城大天守保存修理工事」では、修理の過程で新たな発見があったことなどが公表されています。