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城×武将 武将列伝「第五回 藤堂高虎」

「武将列伝」の第五回は「藤堂高虎」をご紹介致します。

「七人の主君に仕えた」高虎の評価とは?

藤堂高虎

藤堂高虎(とうどう たかとら)は、七人の主君に仕えた戦国武将で知られていますが、「忠臣二君に仕えず」と上下関係の規律に厳しい江戸時代の儒教的思想において、評価はかなり低いものでした。
なぜ、高虎は主君を変えていったのでしょうか。

高虎は、近江国藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪の次男として生まれました。
藤堂家は、代々小領主を務めていましたが、高虎が生まれた頃は、農民までに没落していました。
そんな貧しい環境下でも高虎は大きく育ちました。一説によると身長6尺2寸(190cm)の大男だったと言われています。

そんな高虎が最初に仕えたのは、浅井長政(あざい ながまさ)でした。
織田・徳川連合軍と対峙した姉川の戦い(あねがわのたたかい)で初陣を飾り、みごと戦功を上げますが、不意のいさかいから同僚を殺害して逃走したため、主君を変えざるを得なくなりました。このように逃走して行方をくらましてしまうことを「出奔(しゅっぽん)」と言いますが、出奔したあとでも、初陣の武功に褒美として長政から下し置かれた備前長船(びぜんおさふね)の刀と黄金一枚を、ずっと肌身離さず持ち歩いたと言われています。

二人目の主君は浅井家の重臣だった阿閉貞征(あつじ さだゆき)ですが、貞征は、信長と内通して山本山城に織田軍を引き入れて、主家である浅井家を滅亡に導いたり、本能寺の変では明智光秀に加担して秀吉の長浜城を占領したりするなど、高虎にとって主君とは認めがたい人物だったため、一ヵ月で見切りを付けました。

三人目の主君・磯野員昌(いその かずまさ)は、姉川の戦いで本拠地の佐和山城にて信長軍に降伏に追い込まれ、高虎もこの降伏を機に磯野家を離れざるを得なくなります。
しかし、高虎は員昌の息子である行信(ゆきのぶ)を自分の配下に入れ面倒を見るなど、磯野家を離れてからも、仕えた主君の家を存続させ、子孫と良好な関係を築いていました。

四人目の主君は、織田信長の家臣である津田信澄(つだ のぶすみ)でしたが、戦功を上げても禄が加増されず、不服に思った高虎は出奔します(つまり現代風に言うと「営業成績を上げたのに、昇給がなかったので不満に思って辞めた」ということです)。

五人目の主君は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長(はしば ひでなが)でした。
高虎も秀長のことを大変慕っており、秀長の下で数々の功績を残しています。
秀長が亡くなってからは、若い養子の秀保(ひでやす)を盛り立てるため奮闘し、秀保が早逝して主家が断絶すると、主君二人を弔うため、高虎は出家して高野山に隠棲する程忠義を尽くしました。
その姿を知った秀吉が、高虎の功績を惜しんで還俗させ、伊予宇和島(現在の愛媛県宇和島市)七万石を与えたことから、豊臣秀吉が高虎の六人目の主君となりました。

そして秀吉亡きあと、高虎が七人目の主君として選んだのは秀吉の敵方である徳川家康(とくがわ いえやす)でした。
彼はこの最後の主君のために、粉骨砕身して尽くします。
家康襲撃の企みがあるとの噂を聞きつけたときは、高虎が自ら徹夜で家康の警護にあたり、関ヶ原の戦いでは、家康のために自分の弟を人質に差し出すなど、多くのエピソードが残されています。
当然、そんな高虎を快く思わない者も多く、「豊臣恩顧の大名でありながら、秀吉が亡くなるやいなや家康に尻尾を振るとは何事か」と咎められますが、それに対して高虎は「己の立場を明確にできない者程、いざというときに頼りにならない」と答えたと言われています。
このように当時もそれ以後も、世間からは酷評されましたが、高虎自身が活躍した戦国時代においては、「自分が仕える主君は自分で選ぶ」という判断力と決断力に優れなければ家臣も守れず、生き残れなかったのではないでしょうか。

そして、このような経緯を辿っていくと、高虎は決して「裏切りで主君を変えるようなことはなかった」ことが分かります。
主君と定めた人物には常に忠義を捧げ、天下人である秀吉や家康にも信頼され、ついには土豪の身分から伊勢・津32万石の大名にまで出世したのです。

戦国時代の築城名人でもあった高虎

赤木城
赤木城城郭図

高虎が出世したもうひとつの理由としては、城郭建築の腕前です。
加藤清正(かとう きよまさ)・黒田如水(くろだ じょすい)と並ぶ「戦国三大築城名人」の一人に数えられています。

高虎が築城した代表的な城のひとつに、秀長配下時代に築いた「赤木城(あかぎじょう)」があります。
高い石垣と堅牢であることが特徴ですが、石垣は4メートル程度で、規模は決して大きいものではないものの、当時としては最先端技法であった「野面積み(のづらづみ)」という技法を取り入れていました。
これは自然の石をそのまま積み上げる技法で、頑丈で排水性が良いことから大阪城でも採用されました。

その後、秀長が亡くなり、秀吉に召し抱えられた高虎は、伊予の「板島丸串城(いたじままるぐしじょう、のちの宇和島城)」を与えられ、この城の大改修に取り掛かったのですが、その最中に朝鮮へ出兵しなくてはならなくなり、大改修は中止となりました。
しかし、帰国した高虎は、板島丸串城の改築を再開させ、朝鮮の城の特徴である正方形の本丸を「五角形」の堀で囲んだ総構えを取り入れました。
外側からは四角と見せかけ、敵が攻め込むと空角である死角から不意の攻撃をしかけることができる、実に実践的で巧妙な城へと改修しました。
このように戦場での経験を活かし、かつ最先端の技術を取り入れ、築城の名人として知られるようになったのです。

武将と関連する城

赤木城(三重県)

赤木城

「赤木川の北岸にある標高約230メートルの丘陵に築かれた、藤堂高虎が三十代のころに築いた城です。尾根を利用した中世山城の形式を引き継ぎながら、複雑な虎口の形態、石垣の多用など、近世城郭の手法が採用されているため、中世から近世への移行段階の城と位置付けられています。

当時の熊野北山は、秀吉による検地への反発から大規模な一揆が頻発していました。そのため、秀吉から紀州を任された秀長配下の藤堂高虎が、一揆鎮圧の拠点として1589(天正17)年頃に、この赤木城を築きました。
一揆を鎮めるためとは言え、交通の要所でもない山深い里に不釣り合いな立派な城を築いたのは、秀吉が熊野の豊富な森林資源に目を付けていたからという説と、支配した領地を統治し、豊臣家の威光を示すためだったとも言われています。
1992(平成4)年から13年をかけて、石垣の積み直しや遊歩道の設置など復元整備を行なった赤木城跡の主郭からは、美しい棚田や赤木の町が一望できます。

江戸城(東京都)

江戸城

江戸城は、室町時代、太田道灌(おおた どうかん)によって築かれ、1590(天正18)年に徳川家康が入府し、居城としました。家康が天下平定をしたのち、時の為政者にふさわしい城に改修するため、天下普請が繰り返されますが、本格的な工事が開始されたのは、家康が将軍職を息子の秀忠に譲った1604(慶長9)年頃と言われています。 新しい江戸城の縄張りは、築城の名人である藤堂高虎に任されました。
家康は、江戸城を公的には儀式の場、私的には居住空間にして、本丸を広くしようと考えましたが、高虎は、まだ実戦にも対応できる城にしておくべきであると進言し、当初の計画通りに改修したと言われています。

その後、1867(慶応3)年、徳川最後の将軍となった慶喜は、二条城で天皇家に大政を奉還し、徳川幕府の治世は幕を下ろします。
1868(明治元)年、徳川家側の最高責任者である大久保一翁と勝海舟、大総督府下参謀の西郷隆盛の会談が行なわれ、江戸城の無血開城が決定した際、江戸城は東京城と改められ、天皇家の居城たる皇居となりました。
1968(昭和43)年からは、東御苑として、本丸、二の丸、三の丸の一部が一般公開されています。

今治城(愛媛県)

今治城
写真提供:今治市産業部観光課

今治城(いまばりじょう)は、関ヶ原の戦いの戦功により伊予半国20万石を拝領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた平城で、豊臣家を慕う西国大名を監視する役割を担っていました。
広大な水堀と反りのない直線的な石垣、脆弱な地盤を安定させるための幅広い犬走り(石垣の下の道)、侵入者の方向感覚を失わせ、能率的な都市経営を目指した升目状の城下町設計など、最新の技術とアイデアを盛り込んで築かれており、高虎の代表作とも評されています。

築城当時は、海水を引き入れた三重の堀に囲まれ、海から堀へ直接船で出入りできるなど、海上交通の要所であることの利を最大限に活かした構造になっていました。
本丸には、五重塔に似た構造の「層塔型」の五重の天守が築かれました。
これまでは、安土城の天守に代表されるような「望楼型」の天守が主流でしたが、高虎が「層塔型」を創始して以降、規格を統一することで工期を短縮できるという利点があることから、その後一気に「層塔型」の五重の天守が主流になっていきました。

明治維新で建物のほとんどが取り壊され、内掘と主郭部の石垣を残すのみとなってしまった今治城ですが、主郭は城跡として整備されています。