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城×武将 武将列伝「第四回 北条早雲」

「武将列伝」の第四回は「北条早雲」をご紹介致します。

東国戦国時代の負け悪となった「伊豆討入り」

伊豆討入り
1493(明応2)年 伊豆討入り

北条早雲(ほうじょう そううん)と言えば、一介の素浪人から身ひとつで戦国大名にのし上がった下克上の申し子、と言うのが通説になっていました。
しかし、実際は名門出身であることが近年の研究で明らかにされました。

早雲は情報分析能力に長けており、日々変化する戦国時代の勢力図を読み解き、身の処し方を適切に選び取ることで、厳しい戦国の世を生き残った頭脳派の知将でした。
特に、人心掌握術と領地の統治能力に優れていました。

そんな早雲を最もよく表しているのが、有名な「伊豆討入り」です。
伊豆最大の勢力だった堀越公方(ほりこしくぼう)を滅ぼし、早雲が伊豆国(現在の静岡県東部)を手に入れたこの事件の背景には、堀越公方の跡目争いがありました。
1491(延徳3)年、室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)から伊豆を任されていた足利政知(まさとも)が亡くなると、側室の子であった茶々丸(ちゃちゃまる)が、正室の円満院(えんまんいん)とその子を殺害し、強引に跡目を継いだのがことの発端です。

しかし円満院にはもう一人息子がいました。
それが三男の清晃(せいこう)、のちの11代将軍・足利義澄(よしずみ)です。
清晃は出家して京都で暮らしていましたが、1493(明応2)年、伊豆奪還のため細川政元に擁立され、還俗しました。
実質的に将軍と同等の権力を得た清晃は、伊豆国の国境に近い興国寺城(こうこくじじょう)を拠点にしていた早雲に、母と兄の仇を討ち伊豆を奪還するよう命を下しました。
大義を得た早雲は、手勢約500人を10艘の船に分乗させ、清水浦(現在の清水港)を出港。駿河湾を渡り、伊豆に上陸して堀越御所を急襲しました。そして、茶々丸を山中に敗走させ自決に追い込み勝利を得ます。
その後、韮山城(にらやまじょう)に拠点を置き、着々と伊豆の支配と統治を進め、伊豆国を治める程の戦国大名となりました。
兵には乱暴狼藉をさせず、病人は手厚く看護する、またそれまでの重い税制を廃して四公六民の租税を定めるなど、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民の心を取り込んでいきました。この領民達の力が、伊豆の早期攻略や北条五代の繁栄に繋がったと言われています。

この事件により、守護大名だった早雲が将軍の一族を討って、結果的に伊豆国を治めたことから、下克上の先駆けと呼ばれることもありますが、それだけではありません。
「伊豆討入り」は、あくまでも将軍と同等の権力を持つ清晃からの命を受けての挙兵であること、善政をしいて伊豆国の民心を味方に付けていたことが挙げられます。

早雲は人として守るべき道義や主君への忠義である『大義』を常に考えて行動し、また戦にただ勝つことだけではなく、兵や民など人心を掌握していなければ、長期的な領地支配はかなわないと言うことも考えていたと思われます。
室町幕府が為政者としての力と機能を失い、幕府が任命した守護大名による領地支配が困難になった戦国という時代に、ただやみくもに戦って領地を増やしていくだけではなく、我が物にした領国の安定した統治を積極的に押し進めた早雲は、戦国大名の先駆けであると同時に近世という新たな時代を作りあげた一人ではないかと、再評価の気運が高まっています。

早雲が早くから出世したきっかけと出来事

北条早雲

「伊豆討入り」の際、早雲がすでに興国寺城の城主になっていたのは、その前に仕えていた駿河国(静岡県)の今川家の家督争いにかかわったからと言われています。

今川家のお家騒動は、早雲の姉である北川殿(きたがわどの)が嫁いだ今川義忠(いまがわ よしただ)が、1476(文明8)年、裏切り者の討伐の帰りに討ち死にしたことから始まります。
義忠には北川殿が生んだ龍王丸(たつおうまる)という後継ぎがいましたが、まだ幼少だったため、今川家の家臣の中には義忠の従兄弟である小鹿範満(おしか のりみつ)を擁立する者もあり、家中が真っ二つに分かれていました。
さらに、堀越公方の足利政知や、関東の扇谷上杉家といった近隣の大名なども範満派として介入したため、龍王丸側は不利な状況に追い込まれました。
そのような状況の中、関東大名の力が駿河国にまで及ぶことを警戒した将軍義政は、早雲と早雲の父である伊勢盛定(もりさだ)、さらに北川殿の叔父で将軍の側近であった伊勢貞親(いせ さだちか)を駿河へ向かわせ、「龍王丸が成人するまで後見人として、一時的に範満に家督を代行させる」ことで話をまとめ、この騒動を決着させたのでした。

しかし龍王丸が15歳を過ぎても、範満は家督を戻そうとしませんでした。
そのため1487(長享元)年、早雲は再び駿河へ下り、駿河館を襲撃。
範満とその弟を亡き者にして、龍王丸を駿河館に迎え入れました。
龍王丸は2年後に元服して氏親(うじちか)を名乗り、正式に今川家当主となりました。
この功が認められた早雲は、伊豆との国境に近い興国寺城を与えられ、一城の主となりました。
その後、今川氏の家臣として、甥である氏親を補佐すると同時に、駿河守護代として幕府のためにも働き続けました。

武将と関連する城

興国寺城

興国寺城
写真提供 沼津市商工会

「興国寺城(こうこくじじょう)」は、早雲が初めて手に入れた記念すべき始まりの城です。
早雲が茶々丸を攻め滅ぼし、伊豆の領主となって韮山城(にらやまじょう)に移ってからは、今川・武田・後北条氏の間で常に激しい争奪戦が繰り広げられ、めまぐるしく城主が替わっています。

天正年間(1573~1591年)には徳川家の城となり、秀吉が関東への領地替えを命じた「関東移封」後は、秀吉の武将・中村一氏(なかむら かずうじ)の家臣・河毛惣左衛門尉重次(かわげそうざえもんのじょうしげつぐ)が城主となりました。
現在見られる主な遺構は、北曲輪、本丸、二の丸、三の丸などで、本丸の背後にある土塁への道を登って行くと、自然の石を積み上げた野面積みの石垣が見られます。
天守台跡には建物の礎石が残っており、ここから見える尾根を分断する本丸や北曲輪の間の大空堀は必見です。

韮山城

韮山城

「韮山城(にらやまじょう)」は、早雲が本格的に整備し、伊豆支配の中心とした城です。
築城の正確な年代は分かりませんが、1469~1486(文明年間)年に足利政知(あしかが まさとも)の家臣・外山豊前守(とやまぶぜんのかみ)が、龍城山(りゅうじょうざん)と呼ばれる尾根の上に城を造ったのが始まりのようです。

構造は、複数の城砦から構成された要害堅固な城郭で、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐では、豊臣方総勢約4万4,000に対し、北条方は約3,600という圧倒的不利な状況にもかかわらず、約100日間も籠城で持ちこたえて秀吉を困らせたと言われています。
現在でも権現曲輪や塩蔵址などが残されており、城池公園から堀切道を登り、江川砦、天ヶ岳砦、土手和田砦、和田島砦など周囲の砦を散策することができます。

小田原城

小田原城

「小田原城」は北条氏5代、約100年にわたる関東支配の中心拠点となった城です。
独自の築城術が駆使されているだけでなく、早雲の先進的な思想や行政手腕、都市計画に対する考えが反映された、町にも匹敵する城でした。
その広さは小田原市がスッポリ入ってしまう程だったと言われています。

今の小田原城は、家康の関東入封後に大久保氏によって再建された物で、北条氏の時代はその数十倍もの大きさだったと伝えられています。
1960(昭和35)年には、市政20周年記念事業として天守閣が復興されました。
内部は展示施設になっており、貴重な歴史資料を見ることができるようになっています。
現在、小田原城跡は公園として整備され、2006(平成18)年には「日本の歴史公園百選」に選ばれています。