ご希望の日本の城情報を無料で検索できます。

施設検索/ホームメイト・リサーチTOP

ホームメイト日本の城リサーチ

城×武将 武将列伝「第三回 徳川家康」

「武将列伝」の第三回は「徳川家康」をご紹介致します。

なぜ「江戸」を本拠地に?徳川家康が江戸に見出した物とは

江戸とは?

1603(慶長8)年、徳川家康(とくがわ いえやす)が「江戸」に江戸幕府を開いてから1868(慶応4)年の大政奉還まで、江戸は200年以上も日本の政治の中心地として栄えてきました。
明治維新後は、現在の「東京」に呼称が変わり、そのまま日本の首都となっています。

そんな江戸も都市化するまでは、低湿地が広がる利用価値のない土地が多くを占めていました。
では、家康はなぜこの地を本拠地に選んだのでしょうか。

家康が江戸を見出したきっかけは、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の命令です。
1590(天正18)年、小田原征伐で関東を制圧した豊臣秀吉は、家康がそれまで治めていた三河の領地を取りあげ、関東へ移るよう命じたのです。
これは「家康の勢力を削ぐための左遷だった」という説と、「家康を信頼して関東地方の統治を任せた」という説があり、今でも議論が交わされています。

そのような経緯で、北条氏の旧領を得た家康は、「江戸城(えどじょう)」を居城としました。
江戸城は、1457(長禄元)年に太田道灌(おおた どうかん)が築いた平山城です。
関東地方には、かつて鎌倉幕府の中心地であった鎌倉があったため、家康の家臣達からは、鎌倉を中心に新たな都市開発を推し進めていくことを進言する声が多く挙がっていたようです。
しかし、家康は鎌倉ではなく、あえて未開の土地である江戸を選びました。
理由としては、江戸は遠浅の海に面しており、利根川をはじめ関東地区に流れる河川の終着点となっているため、海や川を利用した港や航路を作れば、軍事的・政治的・商業的に重要な役割を果たすことができると考えたからです。
また、陸路においても関東の街道が交差する地点であったことなど、江戸はあらゆる面で交通路を掌握しやすい場所だったと言えます。

このように江戸を整備し始めてから10年経過した頃、国の情勢は豊臣政権から徳川政権へと傾き始めます。
1600(慶長5)年、天下分け目の「関ヶ原の合戦」で、徳川家康を総大将にした東軍は、石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍に勝利。
1603(慶長8)年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、かねてから準備をしていた江戸に幕府を開いたと言うわけです。
その後、天下普請による江戸城の改修に着手し、積極的に拡張工事を推し進めました。
それまで京都や大阪を中心に動いていた政治が、江戸を中心にした政治体制へと移行し、天下泰平をもたらした江戸時代は、その後、明治維新まで約260年も続くことになったのです。

先見性と着実な実行力で首都「東京」の基礎を築く

江戸の交通路

まだ戦乱の収まらない不安定な時代、家康が入城した当時の江戸城は、比較的規模が小さかったため、敵から攻め入られることのないよう、より一層守備を固める必要がありました。
そこで家康は、現在の皇居の一部にかかる程内陸に入り込んでいた江戸の「海」を埋め立て、さらに川の流れる筋を変えるなど大規模な工事を行ない、長さ14キロメートルもの外堀を備えた「惣構え(そうがまえ)」の城を築き上げました。

また、家康は未開の町「江戸」の都市開発も同時に進めました。
特に隅田川の河口付近は船着き場として発展する可能性を秘めており、整備すれば関東一帯からの流通の起点になると家康は予想しました。
そこで、神田山を削ってできた土を運んで海を埋め立て、町を拡張していきます。
現在の皇居東に堀(道三堀)を作ると、船が物資を内陸まで運べるようになりました。
同様に小名木川(東京都江東区)や、神田川放水路が作られ、内陸部との物資の輸送はさらに円滑になったのです。
この家康の『先見性』と『実行力』で、現在の首都「東京」の基礎が作られました。

武将と関連する城

岡崎城

岡崎城

「岡崎城」は、徳川家康が生まれた城として有名です。
天下人の運命はこの岡崎城から始まりました。
1531(享禄4)年、家康の祖父である松平清康(まつだいら きよやす)がこの地に移り住み「岡崎城」を築城しました。
家康は「桶狭間の合戦」以後(当時19歳)、しばらくは岡崎城を拠点としますが、1570(元亀元)年、嫡男の松平信康(のぶやす)に譲り、家康自身は浜松城へと移っています。

江戸時代には「神君出生の城」と呼ばれ、家格が高く、徳川家と君臣関係の強い譜代大名たちが城主を務めてきました。
石高(こくだか)こそ決して多い城ではありませんでしたが、大名たちは、岡崎城の城主になることを誇りにしていたと伝えられています。
明治時代になると城郭の大部分は取り壊されましたが、1959(昭和34)年に天守閣が復元され、当時の面影を物語っています。
現在では日本百名城に選定され、「岡崎公園」として親しまれています。

※石高:土地の生産性

浜松城

浜松城

家康は29~45歳まで浜松城主を務めましたが、その17年間は、決して順風満帆ではありませんでした。
織田信長(おだ のぶなが)の鉄砲隊が活躍した「長篠(ながしの)の戦い」や、信長の死後、後継者をめぐって豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と唯一対決した「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」など、歴史に名高い合戦にいくつも参戦しています。

中でも1572(元亀3)年に武田信玄と対決した「三方ヶ原(みかたがはら)の合戦」は厳しい結果となりました。
当時家康は、二俣城を攻略した信玄が次に狙うのは本城の浜松城だろうと予想し、篭城戦の準備をしていましたが、武田軍はなぜか浜松城を素通り。
そこで家康は「背後から打って出る」作戦に切り替えたのですが、武田軍は徳川軍の動きを見越して三方ヶ原で待ち構えていたのです。大敗した家康は、この戦いで多くの有力な家臣を失いました。
このとき、その恥辱をいつまでも忘れることのないよう自身を戒めるため、苦渋に満ちた姿を肖像画「顰(しかみ)像」に残したと言われています。

このように、浜松城主時代は苦難が絶えなかった家康ですが、持ち前の粘り強さと深慮遠謀で見事に乗り越え、着実に勢力を伸ばしていったのです。 
そんな家康が苦楽を共にした思い出深い浜松城は現在も見学することができます。
浜松城天守閣は、1958(昭和33)年、野面積みの旧天守台の上に再建されました。
地下には当時の井戸があり、石垣の一部も往時の物が残されています。岡崎城と同じく、浜松城も譜代大名が代々城主となり、江戸幕府の要職を務める者が輩出されたことから「出世城」とも呼ばれています。

二条城

二条城

歴史上、「二条城(にじょうじょう)」と呼ばれる城は複数あり、足利(あしかが)氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏がそれぞれ居城としていましたが、現存する二条城は、1603(慶長8)年に徳川家康が築城した輪郭式平城です。

二条城は、帝が征夷大将軍の宣下をした際に祝賀の儀を行なう場所として使用されたり、江戸幕府の終焉には大政奉還が行なわれたりするなど、歴史が動く瞬間を刻んだ城でもあります。
その他、徳川幕府が朝廷に対して公的な対面や儀式を行なう重要な城として機能していました。

二条城と家康の有名なエピソードのひとつに、「二条城会見」があります。
1611(慶長16)年、家康と、豊臣秀吉の息子秀頼(ひでより)が二条城で対面した際、見事な青年に育った秀頼が、秀吉の時代から付き従う家臣を引き連れ、堂々と受け答えする姿に、家康は「ここで豊臣家を滅ぼしておかないと、のちに大変なことになるのではないか」と、危機感を覚えたと言うことが伝えられています。

明治時代になってからは、京都府の庁舎に使われましたが、現在は国宝(二の丸御殿6棟)、国の重要文化財(建造物22棟、御殿障壁画1016画)、国史跡、特別名勝(二の丸庭園)、世界遺産(古都京都の文化財)などの指定文化財になっています。