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城×武将 武将列伝「第二回 織田信長」

「武将列伝」の第二回は「織田信長」をご紹介致します。

幻の城 安土城をつくった織田信長

イラストイメージ

天下統一を夢見て、実現の一歩手前までたどりついた織田信長。信長が生きた時代は、室町幕府が形骸化し、下克上の戦国時代になっていました。力のある者は、誰もが天下に号令をかけたいと、領土の拡大を模索し、そのような中、信長は全く新しい政策によって、天下統一を図ろうとしました。その象徴とも言えるのが「安土城」です。

1576(天正4)年、有力家臣であった丹羽長秀(にわ ながひで)を、土木工事の管理を行なう普請奉行(ふしんぶぎょう)に命じ、近江の六角(ろっかく)氏が支配していた安土山に、総石垣の安土城を約3年で完成させました。

安土城は、それまで一般的だった山城とは異なり、標高199メートルの場所に、地下1階・地上6階建、総石垣で天主の高さが約32メートル、安土山一体が城域という、とてつもなく大きな城で、その一部は琵琶湖畔までにも至る程の規模でした。信長がこれほどまでに城を大きくした理由は、信長が自分の天下布武(天下統一)を、一目にして世間に知らしめ、力を見せつけるためでした。

織田信長のとった政策の中心は「自由主義」

イラストイメージ

織田信長に対して、ワンマンで冷酷非道のイメージを持っている人も多いかもしれませんが、彼が国づくりをする上で行なった事は、革新的で優れた政策でした。

その典型とも言えるのが、商業政策として行なった「関所の撤廃」と「楽市楽座」です。それまでは、「座」と言われる同業者組合が有力大名などに税を納めることで市場を独占し、今で言う価格カルテルなどが行なわれ、事実上、新規参入ができない状態でした。そこで信長は「楽市楽座」で座を廃止し、さらに関所を撤廃。安土城下では、商人たちは自由に商売ができるようになりました。また、関所の関銭(通行税)で富を増やしていた大名たちの財源や力を奪ったことにより、商人の往来も活発化しました。この政策により、城下町は商人で賑わい、商工業が発展し、経済が活性化していったのです。

織田信長が取ったもうひとつの政策は、「能力主義」による人材の登用です。信長は従来の考え方にとらわれない柔軟な思考を持ち、家柄や肩書にこだわらず、能力のある者はどんどん起用しました。逆に譜代の家柄であっても、能力がないと思う者は、あっさりクビを切られていたと言います。さらに、「兵農分離」を徹底しました。それまで半農半士の状態だった農民と兵士をはっきりと分け、それぞれの専門性を高める政策を取りました。その結果、兵糧の安定供給と、季節に左右されない出兵が織田軍を支え、合戦を有利に進めることができる要因のひとつになりました。

信長の政策に流れる基本的な考えのポイントは、「現状のしがらみ(仕組み)を壊し、新しい物を生み出す」という点です。現代で言えば、「既得権益を廃し、イノベーションを起こす」と言い換えることができるのではないでしょうか。政治やビジネス、仕事を行なう上でも、信長や歴史から学べる点が多くありそうです。

武将と関連する城

安土城

安土城

織田信長が、まさに天下統一の拠点となるべく築城した「安土城」。安土・南蛮図屏風(安土町立城郭資料館蔵)によると、外部を階ごとに塗り分け、金箔の瓦などをほどこすなど、当時の文化の粋を集めた物で、その豪華さは他の城とは群を抜く物でした。
安土城は、六角氏の観音寺城を見本に、城石垣の先駆とも言われる石垣職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」によって普請された“総石垣”の城郭です。この総石垣は以降城郭建築の手本とされ、西日本を中心に全国に広がり、江戸初期に至るまで、日本の城づくりに大きな影響を与えました。
なお、安土城は、信長の死後、1585(天正13)年に近江領主となった豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)によって、安土から八幡山(近江八幡)に城を移し廃城となったため、現在では城跡しかありませんが、城跡地までは散策コースになっており、小学生でも気軽に訪れることができます。
また、城に沿ったお堀を和船に乗って遊覧する観光プランもあり、静かに水が流れる城の堀跡と自然が一体化した景色を楽しめます。

岐阜城

岐阜城

「岐阜城」は、かつて稲葉山城と呼ばれ、斎藤道三(さいとう どうざん)の居城でもありましたが、1567(永禄10)年、織田信長が攻め落とした際、「岐阜城」と改名しました。「岐阜」と言う名前は、古代中国の「周」が中国全土を統一したことに由来する名前で、天下統一を目指した信長の意志が強く反映されています。
現在、長良川を見下ろす金華山にそびえる天守は、1956(昭和31)年、岐阜城再建期成同盟によって復興された物です。
また、岐阜城は現存する城の中では、標高329メートルという有数の高さにあり、遠くに日本アルプスの山々を望むことができます。

清洲城

清洲城

「清洲城」は、織田信長の後継者を決める「清洲会議」が行なわれた城として有名です。尾張国の中心部に位置し、京鎌倉往還(鎌倉街道)と伊勢街道が合流した中山道にも連絡する交通の要所であったことから、信長は叔父の織田信光(おだ のぶみつ)とともに、尾張下四郡の守護代の1人であった城主の織田信友(おだ のぶとも)から清洲城を手に入れ、尾張統一の拠点としました。
現在ある立派な天守閣は、平成元年に再建された物です。
建物の中は、清洲の歴史を知る資料館になっており、2010(平成22)年には、展示内容をリニューアルし、より分かりやすい展示になっています。

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