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城×武将 武将列伝「第一回 豊臣秀吉」

「武将列伝」の第一回は「豊臣秀吉」をご紹介致します。

アイデアで城を攻略した秀吉

「戦国一の出世頭」と称される豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が出世のきっかけとなったのが、「墨俣(すのまた)一夜城」の戦術です。

墨俣城は、岐阜攻めにあたって戦略上の重要拠点であり、長良川とその支流が合流する水上交通の要所でもありました。秀吉は蜂須賀小六(はちすか ころく)ら、地元の地理に詳しい川並衆と協力しながら、川を使って材木を運ぶなどして、「遠くからは見事に見えるが、実はプレハブのような城」を短期間で建てることに成功しました。対岸の敵兵は、あまりにも短い期間に、しかも重要拠点の墨俣に建てられた秀吉側の城を見て、戦意を喪失してしまいます。

秀吉の戦略は「資源や人をうまく使い、いかに兵力を温存し、犠牲者を少なく血を流さず敵に勝利するか」ということに重きを置いています。この考え方は、世界との競争にさらされている現代のビジネスにおいて、勝利する戦略を立てるときにも、最重要な事柄ではないでしょうか。

イラストイメージ

備中高松城の水攻めと小田原征伐に見る秀吉の城攻略作戦

豊臣秀吉が奇策とも言える戦略で攻略した城と言えば、毛利氏配下の清水宗治(しみず むねはる)の守備する「備中高松城」の戦いです。通称「備中高松の城水攻め」とも呼ばれています。

秀吉は備中高松城のまわりに高さ7メートル、約3キロメートルの堤防を、わずか12日間で築き、その堤防に足守川(あしもりがわ)の水を引き入れて、兵糧攻めを行ないました。梅雨時で雨量が多かったことも味方して、約188ヘクタール(東京ドーム38個以上)とも言われる巨大な湖を作り出したと言われています。これにより、高松城はまるで湖に浮かぶ島となり、完全に孤立化させることに成功しました。この作戦は、中国の春秋時代に晋の智伯(ちはく)が晋陽城(しんようじょう)を水攻めにしたことからヒントを得たと言われており、まさに低湿地にある備中高松城の利点を逆手に取った奇策と言えます。

最終的に秀吉は、毛利方の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)を仲立ちに和睦を進め、城主であった清水宗治らの命と引き替えに領民・城兵の命と領土安堵を約束し、水攻めは終結します。本能寺の変という大きな出来事があったとは言え、それを悟られることなく、結果的に備中高松城の幹部だけの犠牲で終結しました。

その後、1590(天正18)年、天下統一を目前にした秀吉は、関東制圧を目的に、小田原征伐に乗り出します。関東随一の巨大城塞である小田原城に対し、秀吉は防御を固め、落城が簡単でないとみるや、秀吉は総勢22万という類をみない軍勢で、本拠地である小田原城を陸と海から完全包囲し、まわりの城を次々に落すことで恐怖を植え付け、降伏させるという作戦を取りました。
そして、小田原城やその城下町を火の海にすることなく合戦を終結したのです。ここでも秀吉は人的損害を最小限に抑える戦略を成功させました。

武将と関連する城

墨俣城

墨俣城

1566(永禄9)年に美濃を攻める途中、交通の要所であった墨俣に秀吉がわずかな期間で城を築いたと言われています。 近くに流れる犀川や長良川を利用して材木を大量に運び、さらにはまわりの木を切って、組み上がった城をいかにも突然できたように対岸の敵に見せるなどの工夫をしていたようです。 現在公園になっている場所にそびえる天守は、大垣城の天守を模した物で、墨俣一夜城歴史資料館となっています。

徳島城

徳島城

墨俣一夜城の戦術をはじめ、四国征伐などに功績のあった蜂須賀小六(はちすか ころく)の嫡男、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)によって建設されたのが徳島城です。
秀吉の命による築城で、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)や長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)、比叡山の僧侶などの協力があったとも言われています。江戸幕府の命による築城などを「天下譜代」と言いますが、その原型は天下統一を果たした秀吉によって始められていたと言えるでしょう。 明治時代の廃城令によって、現在では石垣や表御殿の庭園が当時の姿を思い浮かばせてくれます。

加古川城

加古川城

1577(天正5)年、毛利攻めの総大将となった秀吉が、毛利軍と戦うきっかけとなった軍議(加古川評定)を行なった城として有名です。この軍議に参加していた加古川城12代城主の糟屋武則(かすやたけのり)は、黒田官兵衛の推挙で秀吉に仕え、のちの賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げた「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」の一人となりました。 現在、城跡と思われる位置には称名寺が建立されており、城の様子を示す物は何もありませんが、称名寺の周辺水路などに往時の名残と考えられる場所が見受けられます。